サイドストーリー:相沢 雄大の視点
離婚届にサインした日の夜、俺——相沢 雄大——は会社のデスクで残業をしていた。
特別な理由があったわけじゃない。ただ、家に帰っても香織がいないことは分かっていたし、どうせ誰もいない部屋に帰るなら、仕事をしていた方がマシだと思った。それが俺の判断だ。合理的だと思う。
離婚の話が出たのは、三ヶ月前だった。
香織が「少し実家に帰ってきていいか」と言ってきた時、俺は「好きにしろ」と答えた。今にして思えば、その返し方がまずかったのかもしれない。でもその時は、彼女が一人になりたいのだろうと思っていた。在宅ワークで家にいる時間が長い香織にとって、気分転換が必要なのだと。
仕事が忙しかった。スタートアップの開発チームでは、締め切りが常に追いかけてくる。深夜まで働くことは珍しくなかった。香織には何度も「ごめん、今日も遅くなる」と連絡した。最初のうちは「気をつけてね」と返ってきていた返信が、いつ頃からか「わかった」の一言になっていた。それでも俺は、それを「慣れた」と解釈していた。
香織が不満を持っていることは、薄々分かっていた。でも、彼女は面と向かって文句を言う人間じゃなかった。だから、爆発するまで分からなかった。いや、爆発もしなかった。ただ静かに、「もう無理」と言われた。
「話し合いましょう」と香織が言ってきたのは、十月の終わりだった。
俺は「うん」と答えた。でも、その「話し合い」に俺が本気で向き合ったかというと——正直、自信がなかった。
香織は言った。「私は特別なことを求めてたんじゃない。ただ、一緒にいる時くらい、仕事のことを忘れてほしかった」と。俺には、それが分からなかった。「一緒にいる時に仕事のことを考えて何が悪いんだ」と思った。でも、それを口にしなかったことだけは、俺にしては賢明な判断だったと思う。
離婚を提案したのは、香織だった。
「一緒にいることが、お互いにとって良くないんじゃないかと思う」と彼女は言った。声は静かだった。泣いてもいなかった。それがかえって、俺には刺さった。感情的にぶつかってきてくれる方が、まだ向き合いやすかった。
俺は「そうかもしれない」と答えた。反論しなかった。反論の材料が、自分の中になかった。
書類の手続きは淡々と進んだ。財産分与も、住居の引き渡しも、揉めなかった。お互い、変に執着しなかった。それはたぶん、どちらも関係の終わりに気づいていたからだ——俺が気づいたのが、ずいぶん遅かったというだけで。
香織が実家に帰っている間、彼女が地元で誰かと会っているかもしれないという想像は、頭をよぎらなかった。彼女がそういうことをする人間じゃないのは分かっていたし、何より、俺にはそれを気にする余裕がなかった。
地元に迎えに行ったのは、一度だけだった。
手続き関係の書類を一緒に確認する必要があって、どうしても会わなければならなかった。商店街の近くで落ち合って、短く話して、香織を車に乗せて帰った。その時、商店街の角で男が立っているのを、バックミラーで見た。誰かは知らない。でも、その人物を見た瞬間、香織の表情がわずかに変わったのに気づいた。俺が気づかないと思っていたかもしれないが、気づいた。
その男が誰なのか、俺は聞かなかった。聞く立場でもないと思ったし、何より、既に俺たちの関係は終わりに向かっていた。
深夜の会社で、俺は完成したコードをコミットした。テストが通った。良いコードだ。
スマホを取り出すと、離婚届の写真が保存されていた。サインする前に、証拠として撮ったものだ。別に証拠が必要な状況ではなかったが、エンジニアとしての癖で、重要なことは記録する習慣があった。
俺は画面を消した。
後悔しているか、と問われたら——している部分もある。でも、それが「香織を失ったことへの後悔」なのか、「もっとうまくやれたはずなのにという後悔」なのかは、今の俺には区別がつかない。
それが、俺という人間の限界なのかもしれない。
帰り道、コンビニで缶コーヒーを買って、駐車場で一人で飲んだ。空は曇っていた。星が見えなかった。
来月から、新しいプロジェクトが始まる。締め切りはタイトだ。俺にはやることがある。
それだけは確かだった。




