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卒業式に言いかけた「実は」の続きを、結婚後に聞かされた  作者: ledled


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8/10

サイドストーリー:相沢 雄大の視点

離婚届にサインした日の夜、俺——相沢 雄大——は会社のデスクで残業をしていた。


特別な理由があったわけじゃない。ただ、家に帰っても香織がいないことは分かっていたし、どうせ誰もいない部屋に帰るなら、仕事をしていた方がマシだと思った。それが俺の判断だ。合理的だと思う。


離婚の話が出たのは、三ヶ月前だった。


香織が「少し実家に帰ってきていいか」と言ってきた時、俺は「好きにしろ」と答えた。今にして思えば、その返し方がまずかったのかもしれない。でもその時は、彼女が一人になりたいのだろうと思っていた。在宅ワークで家にいる時間が長い香織にとって、気分転換が必要なのだと。


仕事が忙しかった。スタートアップの開発チームでは、締め切りが常に追いかけてくる。深夜まで働くことは珍しくなかった。香織には何度も「ごめん、今日も遅くなる」と連絡した。最初のうちは「気をつけてね」と返ってきていた返信が、いつ頃からか「わかった」の一言になっていた。それでも俺は、それを「慣れた」と解釈していた。


香織が不満を持っていることは、薄々分かっていた。でも、彼女は面と向かって文句を言う人間じゃなかった。だから、爆発するまで分からなかった。いや、爆発もしなかった。ただ静かに、「もう無理」と言われた。


「話し合いましょう」と香織が言ってきたのは、十月の終わりだった。


俺は「うん」と答えた。でも、その「話し合い」に俺が本気で向き合ったかというと——正直、自信がなかった。


香織は言った。「私は特別なことを求めてたんじゃない。ただ、一緒にいる時くらい、仕事のことを忘れてほしかった」と。俺には、それが分からなかった。「一緒にいる時に仕事のことを考えて何が悪いんだ」と思った。でも、それを口にしなかったことだけは、俺にしては賢明な判断だったと思う。


離婚を提案したのは、香織だった。


「一緒にいることが、お互いにとって良くないんじゃないかと思う」と彼女は言った。声は静かだった。泣いてもいなかった。それがかえって、俺には刺さった。感情的にぶつかってきてくれる方が、まだ向き合いやすかった。


俺は「そうかもしれない」と答えた。反論しなかった。反論の材料が、自分の中になかった。


書類の手続きは淡々と進んだ。財産分与も、住居の引き渡しも、揉めなかった。お互い、変に執着しなかった。それはたぶん、どちらも関係の終わりに気づいていたからだ——俺が気づいたのが、ずいぶん遅かったというだけで。


香織が実家に帰っている間、彼女が地元で誰かと会っているかもしれないという想像は、頭をよぎらなかった。彼女がそういうことをする人間じゃないのは分かっていたし、何より、俺にはそれを気にする余裕がなかった。


地元に迎えに行ったのは、一度だけだった。


手続き関係の書類を一緒に確認する必要があって、どうしても会わなければならなかった。商店街の近くで落ち合って、短く話して、香織を車に乗せて帰った。その時、商店街の角で男が立っているのを、バックミラーで見た。誰かは知らない。でも、その人物を見た瞬間、香織の表情がわずかに変わったのに気づいた。俺が気づかないと思っていたかもしれないが、気づいた。


その男が誰なのか、俺は聞かなかった。聞く立場でもないと思ったし、何より、既に俺たちの関係は終わりに向かっていた。


深夜の会社で、俺は完成したコードをコミットした。テストが通った。良いコードだ。


スマホを取り出すと、離婚届の写真が保存されていた。サインする前に、証拠として撮ったものだ。別に証拠が必要な状況ではなかったが、エンジニアとしての癖で、重要なことは記録する習慣があった。


俺は画面を消した。


後悔しているか、と問われたら——している部分もある。でも、それが「香織を失ったことへの後悔」なのか、「もっとうまくやれたはずなのにという後悔」なのかは、今の俺には区別がつかない。


それが、俺という人間の限界なのかもしれない。


帰り道、コンビニで缶コーヒーを買って、駐車場で一人で飲んだ。空は曇っていた。星が見えなかった。


来月から、新しいプロジェクトが始まる。締め切りはタイトだ。俺にはやることがある。


それだけは確かだった。


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