サイドストーリー:野中 慎一の視点
俺——野中 慎一——が柏木彰人と仲良くなったのは、入社して三ヶ月が経った頃だった。
昼飯を一緒に食べるようになって、帰り道が同じで、気づいたら七年の付き合いになっていた。派手な友人関係を持つタイプじゃない俺にとって、こいつはいつの間にか一番長い付き合いの友人になっていた。
彰人という人間を一言で言うなら——損してる男、だと思う。
能力はある。仕事は丁寧で、チームの信頼も厚い。でも自分ではそれに気づいていない。少し褒めると「たまたまです」と言う。上司に認められると「他に適任がいなかっただけじゃないですか」と返す。本人は謙虚のつもりだと思うが、傍から見るとただの自虐だ。
彼女がいたことがない、というのも驚いた。そこそこ見た目は普通だし、性格もいい。なぜ、と思ったが、しばらく付き合っていると分かってきた。こいつは、自分から踏み込まない。常に半歩引いたところから世界を見ている。
幼馴染の話を最初に聞いたのは、入社二年目くらいの飲み会の席だった。酒が入って、少し口が軽くなった彰人が「好きだった人がいた」と言い出した。
「どんな人?」
「俺には釣り合わない人だった」
「付き合ってたの?」
「それが……何も言えなかった。何もしないまま、終わった」
その話をする彰人の顔が、俺はずっと忘れられない。後悔、というより、もっと静かな感情だった。諦めた人間の顔だ。自分には無理だったと、完全に決着をつけてしまった人間の顔。
それから何年か経って、その幼馴染——香織さん——が地元に帰ってきた。
商店街で偶然会ったと彰人から聞いた時、「ほう」と思った。幼馴染が帰ってきたというだけで、それ以上の意味はないかもしれない。でも、彰人が「指輪してなかった」という俺の指摘に対して黙り込んだ様子を見て、これは面白いことになるかもしれないと思った。
俺が心配したのは、また同じパターンになることだった。
彰人という男は、「好意を持っている」と「積極的に動く」の間に、巨大な壁がある。その壁は本人にとって「常識」「分別」「相手への配慮」という名前がついているが、要は「傷つくのが怖い」ということだと思う。俺は直接そう言ったことはないが、本人も薄々分かってはいるはずだ。
何度か話を聞いた。定食屋で会った話。公園で香織さんが告白じみたことを言ってきた話。帰りの車に乗せられていく香織さんを見て、何もできなかった話。
「また黙って見てるのか」と俺は言った。
彰人は答えなかった。でもその顔は、高校の頃の話をしていた時と同じだった。ただ一点違うのは、今回は少しだけ「怒っている」ように見えたことだ。昔は後悔と諦念だけだったが、今回は怒りが混じっていた。
それが希望だと思った。
離婚したという話を聞いた夜、彰人から「会った」「言えた」とMINEが届いた。
「お前、やっと人間になったな」と俺は返した。
しばらくして「ひどい言い方だ」と返ってきた。
「褒め言葉だよ」と返した。
それ以上のやり取りはしなかったが、スマホを置いてから俺は少し笑っていた。
春になって、職場での彰人は変わった。正確には、「変わった」というより「余裕ができた」という表現が近い。昼飯の時の話し方が、少し変わった。自分のことを話すようになった。前は「俺なんか」という枕詞がよく出てきたが、今はそれが少ない。
「また香織さんと会ったか」と聞くと、「ゴールデンウィークに山に行く」と言ってきた。
「山?」
「ハイキングコース。日帰りで」
「デートじゃん」
「そういう名前はまだ付けてない」
「お前ってほんとに……」
呆れはするが、それがこいつらしい。焦らない。急がない。でも今回は、ちゃんと動いている。
それが、俺には十分だった。
七年間、こいつの隣で「もったいないな」と思い続けてきた。才能も性格も、ちゃんとあるのに、なぜか全部半歩引いた場所から使ってきた。それがやっと、少し変わってきた気がする。
「向こうからしたらとっくにデートだと思うぞ」と俺は言った。
彰人は「そうかもな」と珍しく否定しなかった。
その顔が、入社した頃よりも、ずっと普通の三十男の顔をしていた。




