表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
卒業式に言いかけた「実は」の続きを、結婚後に聞かされた  作者: ledled


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

第6話「泡沫じゃない夢」

半年が経った。


春になると、地元の桜が一斉に咲く。川沿いの土手はピンク色になって、朝の通勤路がいつもと違う顔になる。この景色は小さい頃から変わらない。毎年見ているのに、毎年少しだけ新鮮に感じるから不思議だ。


離婚の手続きが完了したのは、二月のことだった。


香織から短く「全部終わった」とMINEが届いた。俺は「そうか、お疲れ」と返した。それ以上は言わなかった。その夜、電話もしなかった。急ぐことじゃないと思っていたし、彼女も急いでいなかった。


三月に入ってから、ふたりで会う回数が増えた。


昼に会う。川沿いを歩く。定食屋に行く。今まで通りだ。ただ、それまでとは少しだけ空気が違った。何かを隠している感じがなくなった。お互いが、自分の場所からちゃんと話しているという感覚があった。


「ゴールデンウィーク、予定ある?」


四月のある昼、香織が聞いた。


「特にない」

「じゃあどこか行かない? 遠くじゃなくていい。近場でいいから」

「どこがいいんだ」

「彰人が決めて」

「丸投げかよ」

「そういうの得意でしょ、彰人」

「全然得意じゃない」

「ちゃんと考えてくれるじゃない、いつも」


俺は少し黙って、「じゃあ日帰りで山の方に行くか」と言った。子供の頃、家族で行ったことのあるハイキングコースがある。香織とは行ったことがなかった。


「行く行く」と香織は言った。


「ちゃんと歩けるか、坂あるぞ」

「歩けるよ。なめないで」

「スニーカーで来い、ヒールとかやめろよ」

「当たり前でしょ、ハイキングなんだから」


俺は笑った。


香織が笑った。


そういうやり取りが、今は自然にできるようになっていた。


職場で慎一に報告したのは、四月の終わりだった。


「ゴールデンウィーク、山行くことになった」


慎一はコーヒーを飲む手を止めた。「ふたりで?」


「ふたりで」

「付き合ったの?」

「まだ正式にはそういう話はしてない」

「何それ」

「急がないって言ったんだよ、俺が」


慎一は呆れたような顔をしたが、「まあお前らしい」と言った。


「でもちゃんと動いてるんだな、今回は」と慎一が続けた。

「一応な」

「高校の頃と比べたら大進歩だ」

「そこまで言うな」

「言っとかないと忘れるだろ。お前は自分が変わったことに気づいてない」


俺はそれを聞いて、少し考えた。


確かに、今の俺は十七歳の俺とは違う。自分の気持ちを伝えた。急かされたわけでもなく、時間をかけて、ちゃんと言葉にした。それは、昔の俺にはできなかったことだ。


でも、根本的に変わったわけじゃないとも思う。まだ奥手だし、言葉に詰まることも多い。慌ただしく動くよりも、ゆっくり確かめながら進むことが性に合っている。


それでいいと、今は思っている。


「お前、昔は自分のことずっと卑下してたよな」


慎一が言った。


「してたな」

「今もたまにするけど、昔みたいじゃない。何が変わったんだと思う?」


俺は少し考えた。


「分からないけど……ちゃんと自分の場所ができた気がする」

「どこで?」

「仕事でもあるし。あとは、ここ最近かな」


慎一は「香織さんと話してから?」と言った。俺は「かもな」と答えた。


誰かに、ちゃんと見てもらえるというのは、こういうことかもしれない。相手が特別なことをするわけじゃない。ただ、目の前にいて、話して、また会う。それが積み重なっていくうちに、自分の輪郭が少し確かになる。


香織も同じだといいと思う。


ゴールデンウィーク初日の朝、俺たちはバスで山の麓まで行った。平日だったので人が少なかった。新緑の中を、並んで歩いた。


急な坂に差し掛かった時、香織が「ちょっと待って」と立ち止まった。


「息切れか」

「してない。景色を見てただけ」

「負けず嫌いだな」

「彰人こそ」


俺たちは頂上に近い展望台で少し休んだ。眼下に地元の町が見えた。川と、商店街のアーケードと、ごちゃごちゃした住宅地。小さく見えた。


「ずっと、ここに住むつもりか」と香織が聞いた。


「たぶんな。嫌いじゃないから」

「私も、最近そう思ってる。戻ってきてみて、悪くないなって」

「仕事はリモートでできるんだろ」

「うん。来月から、こっちに住もうかと思ってる」


俺は少し驚いた。でも、驚いたことを顔に出さなかった。


「そうか」

「迷惑?」

「迷惑じゃない」

「良かった」


香織は前を向いて、遠くの景色を見た。


「泡沫の夢みたいって、思ってたんだよね、昔は」

「何が」

「彰人との関係。叶わないまま終わって、きれいに消えていく夢。それはそれで綺麗だなって、半分諦めて思ってた」


俺は少し黙って聞いていた。


「でも今は、そう思わない。泡沫じゃなくて、ちゃんとしたものになれる気がしてる」

「急に詩的だな」

「失礼な」

「悪い意味じゃない。同感だ」


香織は「同感かあ」と笑った。俺も少し笑った。


帰り道、バスを待つベンチで横に座りながら、俺は今日のことをどこかに刻み付けておこうとしていた。特別な出来事は何もない一日だった。でも、こういう普通の一日が積み上がっていくことが、たぶん、これからの話だ。


急がない。でも、逃げない。


「次はどこ行く?」と香織が言った。


「お前が決めろ、次は」

「じゃあ海がいい。夏に」

「いいぞ」


それだけ言って、バスが来るのを待った。


昔の俺は、こういう当たり前を想像できなかった。自分には釣り合わないとか、どうせ続かないとか、余計なことばかり考えていた。


でも今は、ただここにいる。


それが、意外なほど、十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ