第6話「泡沫じゃない夢」
半年が経った。
春になると、地元の桜が一斉に咲く。川沿いの土手はピンク色になって、朝の通勤路がいつもと違う顔になる。この景色は小さい頃から変わらない。毎年見ているのに、毎年少しだけ新鮮に感じるから不思議だ。
離婚の手続きが完了したのは、二月のことだった。
香織から短く「全部終わった」とMINEが届いた。俺は「そうか、お疲れ」と返した。それ以上は言わなかった。その夜、電話もしなかった。急ぐことじゃないと思っていたし、彼女も急いでいなかった。
三月に入ってから、ふたりで会う回数が増えた。
昼に会う。川沿いを歩く。定食屋に行く。今まで通りだ。ただ、それまでとは少しだけ空気が違った。何かを隠している感じがなくなった。お互いが、自分の場所からちゃんと話しているという感覚があった。
「ゴールデンウィーク、予定ある?」
四月のある昼、香織が聞いた。
「特にない」
「じゃあどこか行かない? 遠くじゃなくていい。近場でいいから」
「どこがいいんだ」
「彰人が決めて」
「丸投げかよ」
「そういうの得意でしょ、彰人」
「全然得意じゃない」
「ちゃんと考えてくれるじゃない、いつも」
俺は少し黙って、「じゃあ日帰りで山の方に行くか」と言った。子供の頃、家族で行ったことのあるハイキングコースがある。香織とは行ったことがなかった。
「行く行く」と香織は言った。
「ちゃんと歩けるか、坂あるぞ」
「歩けるよ。なめないで」
「スニーカーで来い、ヒールとかやめろよ」
「当たり前でしょ、ハイキングなんだから」
俺は笑った。
香織が笑った。
そういうやり取りが、今は自然にできるようになっていた。
職場で慎一に報告したのは、四月の終わりだった。
「ゴールデンウィーク、山行くことになった」
慎一はコーヒーを飲む手を止めた。「ふたりで?」
「ふたりで」
「付き合ったの?」
「まだ正式にはそういう話はしてない」
「何それ」
「急がないって言ったんだよ、俺が」
慎一は呆れたような顔をしたが、「まあお前らしい」と言った。
「でもちゃんと動いてるんだな、今回は」と慎一が続けた。
「一応な」
「高校の頃と比べたら大進歩だ」
「そこまで言うな」
「言っとかないと忘れるだろ。お前は自分が変わったことに気づいてない」
俺はそれを聞いて、少し考えた。
確かに、今の俺は十七歳の俺とは違う。自分の気持ちを伝えた。急かされたわけでもなく、時間をかけて、ちゃんと言葉にした。それは、昔の俺にはできなかったことだ。
でも、根本的に変わったわけじゃないとも思う。まだ奥手だし、言葉に詰まることも多い。慌ただしく動くよりも、ゆっくり確かめながら進むことが性に合っている。
それでいいと、今は思っている。
「お前、昔は自分のことずっと卑下してたよな」
慎一が言った。
「してたな」
「今もたまにするけど、昔みたいじゃない。何が変わったんだと思う?」
俺は少し考えた。
「分からないけど……ちゃんと自分の場所ができた気がする」
「どこで?」
「仕事でもあるし。あとは、ここ最近かな」
慎一は「香織さんと話してから?」と言った。俺は「かもな」と答えた。
誰かに、ちゃんと見てもらえるというのは、こういうことかもしれない。相手が特別なことをするわけじゃない。ただ、目の前にいて、話して、また会う。それが積み重なっていくうちに、自分の輪郭が少し確かになる。
香織も同じだといいと思う。
ゴールデンウィーク初日の朝、俺たちはバスで山の麓まで行った。平日だったので人が少なかった。新緑の中を、並んで歩いた。
急な坂に差し掛かった時、香織が「ちょっと待って」と立ち止まった。
「息切れか」
「してない。景色を見てただけ」
「負けず嫌いだな」
「彰人こそ」
俺たちは頂上に近い展望台で少し休んだ。眼下に地元の町が見えた。川と、商店街のアーケードと、ごちゃごちゃした住宅地。小さく見えた。
「ずっと、ここに住むつもりか」と香織が聞いた。
「たぶんな。嫌いじゃないから」
「私も、最近そう思ってる。戻ってきてみて、悪くないなって」
「仕事はリモートでできるんだろ」
「うん。来月から、こっちに住もうかと思ってる」
俺は少し驚いた。でも、驚いたことを顔に出さなかった。
「そうか」
「迷惑?」
「迷惑じゃない」
「良かった」
香織は前を向いて、遠くの景色を見た。
「泡沫の夢みたいって、思ってたんだよね、昔は」
「何が」
「彰人との関係。叶わないまま終わって、きれいに消えていく夢。それはそれで綺麗だなって、半分諦めて思ってた」
俺は少し黙って聞いていた。
「でも今は、そう思わない。泡沫じゃなくて、ちゃんとしたものになれる気がしてる」
「急に詩的だな」
「失礼な」
「悪い意味じゃない。同感だ」
香織は「同感かあ」と笑った。俺も少し笑った。
帰り道、バスを待つベンチで横に座りながら、俺は今日のことをどこかに刻み付けておこうとしていた。特別な出来事は何もない一日だった。でも、こういう普通の一日が積み上がっていくことが、たぶん、これからの話だ。
急がない。でも、逃げない。
「次はどこ行く?」と香織が言った。
「お前が決めろ、次は」
「じゃあ海がいい。夏に」
「いいぞ」
それだけ言って、バスが来るのを待った。
昔の俺は、こういう当たり前を想像できなかった。自分には釣り合わないとか、どうせ続かないとか、余計なことばかり考えていた。
でも今は、ただここにいる。
それが、意外なほど、十分だった。




