第5話「今度こそ、言う」
二週間、香織から連絡がなかった。
「また連絡する」と言ったまま、MINEは沈黙していた。俺も送らなかった。何を送ればいいのか、分からなかった。送れなかった、とも言える。
慎一には「様子でも聞けよ」と言われたが、「待つ」とだけ答えた。
「また待つのかよ」と慎一は呆れたが、今回は昔とは少し違う気がしていた。十七歳の頃の「待つ」は、踏み込む勇気がなかっただけだ。でも今の「待つ」は——彼女が自分で決めるのを待っている、という気持ちに近かった。正しいかどうかは分からない。でも、それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。
十一月の終わり、深夜にMINEの通知が来た。
「彰人、起きてる?」
時刻は十一時過ぎ。俺は布団の中で画面を見た。
「起きてる」
しばらくして、返信が来た。
「離婚することにした」
俺は画面を見たまま、少し動けなかった。
「そうか」
そう打ち込んで、それから少し考えた。今ここで何を言えるのか。何を言うべきか。
「今どこにいる」
「実家」
「明日、会えるか」
「……うん」
翌朝、俺は実家に近い公園に向かった。昔よく遊んだ場所じゃなく、香織の実家に近い小さな公園だ。ベンチが二つと、古いブランコがある。
香織は先に来ていた。コートに手を突っ込んで、俯いてベンチに座っていた。俺の足音を聞いて顔を上げた。目が少し赤かった。
「待たせたか」
「ちょっとだけ」
俺は横に座った。
「ごめんね、いきなり」
「いい。話してみろ」
「話すって、何を」
「何でもいい。話したくて呼んだんだろ」
香織は少しだけ笑って、それから息を吐いた。
「離婚を決めたのはね、三ヶ月くらい前から話してて。昨日、書類にサインした」
「そうか」
「雄大が悪い人なわけじゃないんだけど……ずっと、話が噛み合わなかった。仕事が大事なのは分かるんだけど、私は別に特別なことを求めてたわけじゃなくて、ただ話を聞いてほしかっただけで——」
声が少し震えた。
「でも、それすら難しかった。忙しいって言われたら、それ以上何も言えなくて。気がついたら、家の中で私だけが一人みたいな感じで」
俺は黙って聞いていた。
「向こうの方が気まずかったのかな、今は。実家に帰ってていいって言われて。だから地元にいたんだけど、それがかえって、全部考える時間になって」
「それで決めたのか」
「うん。ちゃんと向き合って話し合って、お互い納得して。感情的にじゃなくて」
俺はそれを聞いて、少し安心した。彼女が辛い状況に置かれていたというよりも、彼女がちゃんと自分で判断したということが、安心につながった。
「彰人には、迷惑かけてごめんね。こんなことで呼んで」
「迷惑じゃない」
「でも——」
「迷惑じゃないって言った」
香織は少し黙った。
俺は空を見た。十二月の手前の空は、薄いグレーだった。
「俺、言っていいか」
「……何を」
「今も、好きだ」
声に出したら、意外なほど落ち着いていた。震えなかった。緊張もしていた。でも、出た言葉はちゃんとした形をしていた。
「三ヶ月前から思ってた。言うべきかどうか、ずっと迷ってた。でも言わないままだと、また十二年経つ気がした」
香織は俺の横で静かにしていた。
「今すぐどうこうしてほしいとかじゃない。ただ、伝えておきたかった。今度こそ」
しばらく、無音だった。
それから、香織の肩が小さく揺れた。
「……バカ」
「バカって何だ」
「そんなこと、今言うの、ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ」
涙が一筋、彼女の頬を流れた。俺はそれを見た。
「私も、ずっとそう思ってたから」
声が細かった。
「好きだったじゃなくて、好きって、今もそうだから。だからずるい」
俺は何も言わなかった。言葉がなかった。
ただ、隣に座っていた。それだけだった。
しばらく、ふたりで黙っていた。風が吹いた。ブランコが少し揺れた。
「急がなくていいから」と俺は言った。
「急がないよ」
「離婚の手続きが終わったら、落ち着いたら」
「うん」
「その後でいい。急がなくていい」
「……分かった」
香織は目元を袖で拭いて、少し笑った。
「今日ここに呼んだのね、本当は慰めてもらいたかっただけなんだけど」
「慰めてないぞ」
「全然慰めてくれなかった」
「それで良かったのか?」
「うん、良かった」
公園を出る時、香織は「ありがとう」と言った。俺は「別に」と答えた。
彼女が角を曲がって見えなくなってから、俺は大きく息を吐いた。
言えた。
たったそれだけのことだが、なぜか今日の空気が少し違う重さに感じた。良い意味で、重かった。
スマホを取り出すと、慎一からMINEが届いていた。
「今日会ったか?」
「会った」
「どうだった」
「言えた」
しばらく間があって、慎一から「お前、やっと人間になったな」と返ってきた。
俺は笑った。




