第4話「手の届かない場所」
あの夜以来、香織はMINEの返信が少し早くなった。
内容は変わらない。「今日暇?」「お昼、やまとにする?」「パン屋に新しいクロワッサン入ったみたい」——それだけのやり取りだ。でも昔は半日待つこともあった返信が、今は一時間以内に来るようになった。それが何を意味するのかは、俺には分からない。あえて考えないようにしていた。
十一月に入ると、地元は一気に冬の空気になった。
その日の昼すぎ、俺と香織は川沿いのベンチに座っていた。コンビニで買ったホットコーヒーを片手に、流れの遅い川を眺めていた。
「東京、寒くなった?」
「もう結構冷えてるよ。地元より風が強い感じ」
「都内はそういう建物の隙間風があるらしいな」
「そうそう、ビルの間が特に」
他愛のない会話。最近は黙っている時間も増えていた。でも今はその沈黙が、昔みたいに重くなかった。
「ね、聞いていい?」
香織が言った。
「また何だ」
「いや、変なことじゃなくて。彰人って、今、誰かいるの?」
俺は少しだけ間を置いた。
「いない」
「そっか」
「お前は聞くな」と俺は言った。
「聞いちゃダメ?」
「……ダメじゃないが、答えにくい」
「何で?」
「何でって……」
俺が言葉を探していると、香織のスマホが鳴った。彼女は画面を見て、一瞬、表情が固まった。
「ちょっとごめん」
立ち上がって、少し離れた場所で電話に出た。声が聞こえないように歩いて行ったが、俺には雰囲気が分かった。声のトーンが変わっていた。笑顔のない、低くなった声。
五分ほどして、香織が戻ってきた。
「ごめんね、急用が出来た。今日はここまでで」
「そうか」
「また連絡する」
「ああ」
彼女は小さく「ごめん」と言って、足早に商店街の方向へ歩いて行った。俺はそのまま、川沿いのベンチに残った。コーヒーはもう冷めていた。
誰からの電話かは分かった。聞かなくても、分かった。
翌週、慎一と飲みに行った時に話した。
「旦那に呼び戻されたと思う」
「まあそうだろうな」
「本人は何も言わないが」
「言えないだろ。お前に」
慎一はビールを飲んで、「どうするんだよ」と続けた。
「どうするも何も、俺には関係ない話だ」
「本当にそう思ってるか?」
「……」
「彰人、お前さ、また高校の時と同じことしてんじゃないの」
俺はグラスを持ったまま、黙っていた。
「遠くから見てるだけ。何も言わない。踏み込まない。そのままズルズルと時間だけ過ぎる。最後に後悔する。それ、十年前に一回やったろ」
「今は状況が違う。彼女は結婚してる」
「だから踏み込めないって言いたいの? それとも、踏み込まない理由に使ってるの?」
俺は答えなかった。慎一は「どっちでもいいけどさ」と枝豆をつまんだ。
「お前がどうしたいのかを聞いてるんだ。周りの状況じゃなくて」
「……分からない」
「分からないんじゃなくて、認めたくないんだろ」
そう言って、慎一はそれ以上は言わなかった。
それから三日後の夕方、俺が会社から帰ろうとしていると、商店街の入口に見慣れない車が停まっていた。そして、その隣に香織が立っていた。
少し離れた場所から見ると、香織の向かいに立っているのは男だった。年齢は三十前後。スーツにコートを羽織っていて、仕事帰りという格好をしていた。声は聞こえなかったが、男の方が何かを言っていて、香織は視線を下に落としていた。
俺は足を止めた。
男が香織の腕を掴んだ。強引なやり方じゃない。でも、優しくもなかった。「早くしろ」というような、手の動きだった。香織は小さく頷いて、助手席に乗り込んだ。車はそのまま走り去った。
俺は結局、そこから動かなかった。
声をかけることもしなかった。
何かができたかどうかも、正直分からない。ただ、何もしなかった。
夜、慎一から「今日どうだった」とMINEが来た。返信に少し時間がかかった。
「また何もしなかった」
そう打ち込んで、しばらく送信ボタンを押せなかった。
結局送った。
慎一からは「そうか」の一言だけ返ってきた。それがかえって、胸に刺さった。
夜の部屋で、俺は香織のMINEのトーク画面を開いた。最後のメッセージは三日前の「また連絡する」だった。既読がついているのに、俺は何も返していなかった。
「今日、商店街で見かけた」
送ろうとして、止めた。
それを送ることが正解かどうか、俺には判断できなかった。送ったところで、彼女を困らせるだけかもしれなかった。
結局、何も送らずにスマホを置いた。
布団に横になって、目を閉じた。
高校の夏祭りを思い出した。遠くから花火を見ていた、あの夜。近づけなかった。何年経っても、俺は同じ場所に立っている。
少しだけ、怒っていた。自分に対して。




