第3話「言いかけた言葉」
それから香織は、週に一度か二度、地元に顔を出すようになった。
来るたびに俺をMINEで呼び出して、定食屋か、商店街のパン屋か、川沿いのベンチかで時間を過ごした。夫の話は一切出なかった。俺も聞かなかった。都内に帰る時刻が近づくと、「じゃあまた」と手を振って、彼女はいつも先に去っていった。
慎一には「何やってんの、お前」と呆れた顔をされた。
「何って」
「幼馴染の既婚女と毎週会ってる三十男が何って聞いてるんだよ」
「ただ飯食ってるだけだ」
「その言い方が一番やばい」
慎一はため息をついた。こいつは基本的に何でも正直に言う。それが長所でもあり、たまに鈍器になる。
「俺も何が何だか分かってない」
「なら聞けよ。旦那との関係どうなんですかって」
「お前、それ俺に言えると思うか」
「言えないから毎週顔だけ見に行ってんだろ」
そう言われると、反論できなかった。俺は缶コーヒーをひとくち飲んで、「まあな」とだけ答えた。
その翌週の土曜日、香織から「今日、夜ならどうかな」と連絡が来た。いつもは昼間だったので、少し意外だった。「構わない」と返すと、「駅前の公園、七時に」と指定してきた。
秋の七時は、もう真っ暗だ。公園に着くと、香織はベンチに座って街灯の光の中にいた。手元にコンビニの袋があった。中に缶コーヒーと、チョコレートが入っていた。俺の分まで買ってきていた。
「気が利くな」
「たまにはね」
俺たちはベンチに並んで座った。遠くの方で子供の声が聞こえていたが、公園の中には他に人がいなかった。
「ここ、昔も来たことあるよね」
「子供の頃。秘密基地作ったっけ、この公園で」
「そう。あの木の裏」
香織が指さした先に、ケヤキの大木があった。今もそこにある。時間が経っても、木は変わらない。
しばらく、他愛のない話をした。秘密基地の話、小学校の担任の先生の話、近所の猫のことを二人で心配していた話。昔の記憶が、ゆっくり蘇ってくる。
ある程度話が続いて、それが自然と落ち着いた時、香織がコーヒーを持ったまま静かに言った。
「ね、聞いてもいい?」
「何を」
「卒業式の日のこと、覚えてる?」
俺は少し、体が固まるのを感じた。
「覚えてる」
「あの日ね、私、ちゃんと言えなかったことがあって」
「知ってる。途中で友達に呼ばれた」
「うん」
香織はコーヒーの缶を両手で包んだまま、じっと前を向いていた。
「彰人、私ね」
俺は黙って続きを待った。
「あの時言おうとしてたのが、何だったか、教えていい?」
「……好きにしろ」
「好きにしろって、いつもそれ」
「いや……聞かせてくれ」
少しの間、沈黙があった。街灯が俺たちの足元を照らしていた。遠くで電車が通り過ぎる音がした。
「私も、彰人のことが好きだったって言おうとしてた」
その言葉が、空気の中に置かれた。
俺の胸の中で何かが音を立てた。でも、その音の形を、俺はすぐに言葉にできなかった。喜びじゃなかった。少なくとも、最初に来たのは喜びじゃなかった。
「……」
「言えなかった。ずっと言えなかった」
「十二年前の話か」
「そう。でも、言えてなかったことが、ずっとひっかかってて」
俺は缶コーヒーを手の中で握りながら、頭の中で何かを整理しようとしていた。整理なんかできるものじゃなかった。
十二年前、彼女も同じ気持ちだった。
それを俺は知らないまま、十二年生きた。
それを彼女は胸に抱えたまま、別の男と結婚した。
「なんで今になって」
口から出た言葉は、詰問じゃなかった。ただ、純粋に分からなかった。
「地元に帰ってきて、彰人と話したら——昔のことを、ちゃんとしたくなったんだと思う」
「ちゃんとする、って」
「言えなかったことを言う、ってこと。謝るとかじゃなくて、ただ、伝えておきたかった」
「……それは」
俺はそこで言葉を止めた。続きが出てこなかった。
嬉しいか、と言われたら、嬉しいとも言える。
悔しいか、と言われたら、悔しいとも言える。
何より、頭の中に浮かんでいたのは、十七歳の夏祭りの夜のことだった。花火の音の中で、遠くから香織の笑顔を見ていた俺。声をかけることもできなかった。あの時もし、俺が少しでも違う人間だったなら。
「彰人は、どうだったの」
香織が、静かに聞いた。
「……好きだったよ」
「今も?」
俺は少し黙った。
「今は……分からない」
嘘だった。でも本当のことも言えなかった。今この瞬間に「好きだ」と言うことが、何かを壊すかもしれなかった。何を壊すのかも分からないのに。
「そっか」
香織は短く答えて、コーヒーをひとくち飲んだ。
「ありがとう、聞いてくれて」
「俺の方が、聞きたかったのかもしれない」
「何それ」
「十二年、気になってたんだよ。あの時何を言おうとしてたか」
「そうだったの?」
「そうだった」
香織はそれを聞いて、少し笑った。今日、初めて彼女が本当に笑った気がした。
公園を出る時、俺たちは少しだけゆっくり歩いた。帰り際に「また来てもいいか」と香織が言ったので、「来い」と答えた。前より少し、素直に出た。
家に帰って、風呂に入って、布団の中で天井を見上げた。
「ずっと好きだった」と彼女は言った。過去形だ。今は、違うのかもしれない。もう結婚した。別の誰かを選んだ。それが今の彼女の現実だ。
俺は目を閉じた。
十二年前に聞けた言葉だ、と思った。
そして——今聞いたことの意味を、俺はまだ正確に理解できていなかった。




