第2話「空白の十年」
翌週の土曜日、香織からMINEが届いた。
「今日、暇だったりする?」
シンプルな一文だった。昨日も一昨日も何もなかったのに、突然だった。俺はベッドの上で画面を見つめて、少し考えてから「暇」と返した。嘘じゃない。本当に何も予定がなかった。
「じゃあお昼一緒に食べない? 近所の定食屋ってまだある?」
「ある。十二時に駅前でいいか」
「うん、行く」
それだけのやり取りで、待ち合わせが決まった。
俺はとくに準備らしい準備もせず、いつもと同じような格好で駅前に向かった。待ち合わせの五分前に着いたら、香織はすでにいた。
「早いな」
「待つのは平気なんだよね」
彼女はそう言って笑った。昨日より少し顔の力が抜けていた気がした。休日だからか、それとも別の理由があるのかは、俺には分からなかった。
商店街の奥にある小さな定食屋——「めし処 やまと」——は、高校の頃から変わらない。カウンターが六席と、四人掛けのテーブルが三つ。昼時はいつも満席だが、今日は少し早めに入れた。
ふたりで向かい合って座った。おばちゃんが「日替わりとサバの味噌煮どっちにする」と聞いてくるから、俺は日替わり、香織はサバを選んだ。
「ここ、変わらないね」
「うん。値段だけ少し上がった」
「そっか。でも変わらないところがあるってなんか、ほっとするね」
香織はそう言いながら、お冷やをひとくち飲んだ。
「実家はどうだ」
「両親は元気。お父さん、定年してから家庭菜園にはまってて、毎日畑に出てるって。お母さんはパート続けてる」
「そうか」
「彰人んちは?」
「うちは父親が五年前に。母親はひとりで、近くに住んでる」
「そうなんだ……ごめん、知らなかった」
「いや、別に謝ることじゃない」
会話が途切れた。おばちゃんが味噌汁と小鉢を運んできてくれたので、「ありがとうございます」と俺たちはほぼ同時に言った。
「懐かしいね、こういう感じ」
香織がぽつりと言った。
「何が」
「ふたりで話してるの。昔は、なんかいつも、もっといろいろ話してた気がしてたんだけど」
「俺、そんなに話してたっけ」
「彰人は聞いてくれる方だったよ。私がずっと喋ってた」
俺はそれを聞いて、少し昔のことを思い出した。確かにそうだった。香織が話して、俺が相槌を打つ。それが俺たちの標準的な会話だった。俺が何かを話しかけることは、ほとんどなかった。
「今はどうなんだ」
「今?」
「仕事とか、向こうでの生活とか」
香織は一瞬、視線を落とした。
「仕事は……去年から在宅メインになって。都内の出版社で編集の仕事してたんだけど、今は結構リモートで動けるから」
「ふうん」
「だから地元にいても、仕事はできるんだよね」
「なるほど」
俺はそれ以上は聞かなかった。香織の話し方が、何かを迂回しているように聞こえた。都内での生活について、夫についての話が一切出てこない。普通なら、「旦那さんはどうしてるの」と聞くのが自然な流れかもしれない。でも俺には聞けなかった。
それは、答えを怖がっているというより——聞いて、もし彼女が困るような答えが返ってきた時に、俺が何も言えないと知っていたからだと思う。
「彰人は変わったね」
香織が突然言った。
「どこが」
「なんとなく。昔より、落ち着いてる感じがする。前はなんか、ずっと居心地悪そうにしてたじゃない」
「そうだったか」
「そうだったよ。自分のことをすぐ卑下するし、輪の端っこにいつもいるし」
俺は小さく笑った。否定できない。
「まあ、十年以上経ったしな」
「それだけじゃないと思う。なんか、ちゃんと自分の場所ができた感じがする」
「大げさだ」
「大げさじゃないよ」
香織はそう言って、サバの味噌煮を箸でほぐした。「私の方が、なんか迷子みたい」と、小さな声で続けた。
俺はそれを聞いた。でも、何も言わなかった。
定食屋を出た後、しばらくアーケードを並んで歩いた。特に目的もなく、ただ歩いた。香織は本屋の新刊コーナーを覗いたり、雑貨屋のウィンドウの前で少し立ち止まったりした。俺はその横にいた。
「また来てもいい?」
別れ際に、香織が言った。
「来てもいいって何が」
「地元。こうやって、ごはん食べに」
俺は一拍置いてから、「好きにしろ」と答えた。
「ちょっと、もう少し歓迎してよ」
「歓迎してる」
「全然そう聞こえない」
「……また来い」
「うん」と香織は笑った。
駅の改札の手前で、彼女は軽く手を振って反対方向に歩いていった。俺は自分の自転車まで歩きながら、さっきの「迷子みたい」という一言が頭から離れなかった。
迷子。
その言葉の意味が、今の俺には全部は分からなかった。
分からないまま、家に帰って、夕食を作って、テレビを流した。今日も何もない夜だ。でも今日は、昨日よりも少しだけ違う重さで、夜が始まった。
俺は手の指を見た。何もない、左手。
香織の左手も、指輪がなかった。
それがどういう意味なのか、俺にはまだ聞く権利がない気がした。




