第1話「十年ぶりの声」
十月の商店街は、夕暮れになると急に肌寒くなる。
仕事帰りにスーパーへ寄ろうと、俺——柏木 彰人——は自転車を降りて駐輪場の鍵をかけた。今日も定時ちょうどに上がれた。残業が当たり前だった三年前に比べれば、随分と穏やかな生活になったものだと思う。
アーケードに入ると、漬物屋のおばちゃんが試食の声を張り上げていた。精肉店の焼き鳥の煙が流れてくる。子供の頃から変わらない匂い。地元というのは、こういうところだ。何も変わらない。変わらないことが、少しだけ息苦しく、でも少しだけ安心感もある。
「彰人?」
声が、聞こえた。
振り返ることを、一瞬ためらった。よくある名前じゃない。でも確信が持てなかった。十年という時間は、人の声を変える。だから、俺は反射的にではなく、ゆっくりと振り返った。
立っていたのは——香織だった。
「……香織」
名前が口から出るまで、三秒かかった。
山田 香織。いや、今は苗字が変わっているはずだ。十年前のニュースサイトで確認した記憶がある。でも今この瞬間、俺の頭にあったのは「山田香織」という音だった。
彼女は黒いコートを着ていた。長かった髪は肩のあたりで切り揃えられ、高校の頃よりも大人びた印象になっていた。でも、その顔の輪郭は変わらない。笑いかけてくる時の目の細め方も、変わっていなかった。
「久しぶりだね。何年ぶりかな」
「卒業してから……十二年か、十三年か」
「十二年。私、数えてた」
そう言って、香織は少しだけ笑った。それが昔と同じ笑い方だったから、俺は何も言えなかった。
商店街の人波が俺たちの横を流れていく。お互いに、次の言葉を探した。長い沈黙でもないし、短い沈黙でもない。空白の重さが、ちょうど十二年分くらいある気がした。
「地元に帰ってきてたの?」
「うん、まあ。少しの間ね」
「少しの間、って」
「実家に顔出しに来た感じ。買い物してたら、たまたま」
香織はそう言って、視線を一度だけ横に逃がした。俺はその動きを、昔から知っていた。何かを誤魔化そうとしている時、彼女は必ず一瞬だけ横を向く。高校の時、試験の点数を聞かれた時も、文化祭の準備が間に合わなかった時も、そうだった。
「そっか」
俺は余計なことを聞かなかった。ここで踏み込むのが正解かどうか、判断できなかったし、もし判断できたとしても、おそらく俺は踏み込まなかっただろう。それが俺という人間だ。三十歳になっても、その部分は根本的に変わっていない。
「彰人は? 今、何してるの?」
「地元のIT会社。チームリーダーってやつに、いつの間にかなってた」
「すごいじゃない」
「たいしたことないよ。規模が小さい会社だから、なれるんだ」
「そういうこと言う癖、まだあるんだね」
香織は苦笑した。俺は少しだけ、耳が熱くなった。
しばらく、当たり障りのない話をした。地元の変化、共通の知り合いの近況、アーケードが近いうちにリニューアルされるという噂。香織の話し方は相変わらずよく笑うけれど、昔と何かが微妙に違う気がした。声のトーンが、どこか半音低い、みたいな。
「じゃあ、私そろそろ行くね。また会ったらお茶でもしよう」
「ああ、そうしよう」
「連絡先、変わった?」
「変わった。MINEのIDだけ同じだから、そっちに入れて」
「わかった」
香織はスマホを操作して、そのまま手を振って歩いていった。俺は彼女の後ろ姿が人波に消えるまで、その場で立っていた。
「よお、誰と話してたんだ」
振り返ると、精肉店から焼き鳥の袋を抱えた野中 慎一が立っていた。職場の同僚で、七年来の友人だ。こいつも地元出身で、同じ商店街をよく利用する。
「幼馴染」
「幼馴染? 女?」
「女」
「へえ」慎一は俺の横に並んで、彼女が消えた方向を見た。「あの人、指輪してなかったな」
俺は一瞬、動きを止めた。
「……お前、そんなとこ見てるのか」
「男ってそういうもんだろ。で、既婚だっけ?」
「……結婚してるはず。少なくとも、数年前は」
「ふうん」
慎一はそれ以上は言わなかった。そして、「まあ夕飯食うなら一緒に帰ろうぜ」とだけ言って歩き出した。
俺はゆっくりとその後ろに続きながら、さっきの会話を頭の中で反芻した。
少しの間、実家に。
横を向いた、あの一瞬。
指輪のない、左手。
それぞれのピースが頭の中でかちあって、でも俺はどこにも当てはめることができなかった。当てはめたくなかった、という方が正確かもしれない。
アーケードを出て、日暮れの商店街の外に出ると、空はもう暗い紫色をしていた。風が冷たかった。今年の秋は早い、と誰かが言っていた気がする。
慎一が「焼き鳥食うか」と袋を揺らした。俺は「一本だけ」と答えて、モモを受け取った。
何でもない夜だ。いつもと同じ帰り道。
でも何かが、今日から少しだけずれた気がした。
香織が地元に戻ってきている。それだけが、今日の夕方に起きた事実だった。残りは、全部俺の勝手な想像だ。
その夜、MINEの通知が一件届いた。
「久しぶりだったね。またいつかお茶しよ」
シンプルな一文。スタンプも絵文字もない。
俺はしばらく画面を見つめて、「そうしよう」とだけ返した。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。眠れない理由は分かっていたけど、認めたくなかった。
三十にもなって、こんなことで動揺しているのが情けなかった。
でも、きっと俺は、十七歳の時からちっとも変わっていない。




