エピローグ:三年後の春
春になると、香織は庭に花を植えたがる。
去年はラベンダー、一昨年はローズマリー、そして今年はどういうわけかトマトだという。「食べられるやつの方がいいじゃない」と言われると反論できない。三年前に俺たちが一緒に住み始めた小さな一軒家の庭は、今や彼女の実験農場みたいになっている。
「水やり、頼んでいい? 私、仕事の打ち合わせ入っちゃったから」
キッチンから声が飛んでくる。
「分かった」と答えてから、俺は手に持っていた文庫本を閉じた。縁側から庭に出て、ホースを引っ張る。土が乾いている。香織の言う通り、今日は水が必要だった。
あれから、三年が経った。
正確には、あの公園で「好きだ」と伝えてから三年と数ヶ月だ。香織が離婚を終えて、地元に引っ越してきて、ゆっくり関係を育てた。「急がなくていい」と言った通り、急がなかった。半年かけてちゃんと付き合い始めて、一年半後に入籍した。
「遅い」と慎一には言われたが、「これが俺らのペースだ」と答えた。慎一は呆れて笑っていた。
水やりを終えて縁側に戻ると、香織が打ち合わせから戻ってきていた。ソファに座って、ノートパソコンを閉じた直後だった。
「終わった?」
「うん。来月の原稿の話だった。でも良い感じに進んでる」
「そうか」
香織は今、フリーランスで編集の仕事をしている。出版社を辞めて地元に戻ってから、在宅で続けられる仕事のやり方を作っていった。最初は不安そうにしていたが、今は自分のペースで動けていると言っていた。
「そういえば」と香織が言った。「雄大から連絡来た」
「何で」
「書類の確認。離婚の時の手続きで、一か所修正が必要な書類があったみたいで」
「大変だな」
「もう三年も経ってるのに」と香織は苦笑した。「でも、向こうも再婚するらしくて、その関係で整理してたみたい」
「ふうん」
「うん。良かったんじゃないかな、向こうも。あの人、仕事してる時が一番生き生きしてたから、仕事に合う人と一緒になれれば良いと思う」
香織の言い方に、恨みも未練もなかった。それが本当のことだと俺には分かった。三年一緒に暮らしていると、香織の本音と建前の区別はだいたいつく。
雄大のその後は、慎一がどこかで耳にした話では、仕事でそれなりの結果を出しているらしい。再婚相手も同じ業界の人間だと聞いた。それがその人に合った人生なのだろう。
俺には関係ない話だ。
むしろ今の俺には、自分の生活の方が圧倒的に重要だ。
チームリーダーから、今年の春に部門のサブマネージャーに昇進した。たいしたことない、と最初は思ったが、香織に「素直に嬉しいって言えるようになったんじゃないの」と指摘されて、少し考えた。確かに、三年前の俺なら「たまたまです」と言っていた。今は「ありがとうございます」と答えられるようになっていた。
「彰人って、変わったよね」と香織はよく言う。
「どこが」と聞くと、「なんか、ちゃんと受け取れるようになった感じ」と言う。「褒め言葉とか、好意とか。昔は全部跳ね返してた」と。
そうなのかもしれない。
変わったというより、余計なものが薄くなった感じだと俺は思っている。「俺なんか」という声が、以前よりずっと静かになった。それが何から来ているのかは、今となっては説明できない。香織のおかげだとも言えるし、時間のおかげだとも言えるし、もしかしたら、あの夜に「好きだ」と言えた瞬間から始まったのかもしれない。
夕方になって、俺たちは夕飯の材料を買いに商店街に出かけた。
アーケードを並んで歩く。漬物屋のおばちゃんが「いらっしゃい」と声をかけてくれる。定食屋「やまと」の前を通ると、房子さんが外の黒板にメニューを書いていた。
「あら、今日は来ないの?」
「今日は家で作ります」
「そう、またね」
房子さんが笑って手を振った。あの人は三年経った今も変わらない。店も変わらない。商店街も少しずつ変化しているが、変わらない部分がある。
それが、ここが地元である理由だと思う。
スーパーで買い物をしていると、香織が「あ」と言った。
「何だ」
「ローズマリー、もう少し欲しい。来週また買いにこよう」
「トマトの心配しなくていいのか」
「トマトは大丈夫。ローズマリーがもう少し増えると、玄関が良い香りになるんだよね」
俺は「そうか」と言って、カゴに鶏もも肉を入れた。
夜、夕飯を食べながら、香織が「今日の味噌汁、良い出汁出てる」と言った。
「煮干しを多めにした」
「そうなんだ」
「お前が薄いって言うから」
「ちゃんと聞いてるじゃない」
香織は笑った。
こういう夜が、三年続いている。特別なことは何もない夜だ。でも、こういう何でもない夜が積み上がっていくことが、生活というものだと今の俺には分かる。
昔の俺は、こういう普通を想像できなかった。
自分には続かないと思っていた。釣り合わないと思っていた。幸せになることへの想像力が、どこかで欠けていた。
でも今は、隣に香織がいる。
食後のお茶を飲みながら、俺はふと十七歳の自分を思い出した。夏祭りの夜、遠くから彼女を見ていたあの少年。声をかけることもできなかった。あの子に、今夜の風景を見せてあげたいと、ふと思った。
「何考えてるの?」
香織が言った。
「十七歳の時のことを少し思い出してた」
「どんな?」
「夏祭りの夜。お前の後ろを遠くから歩いてた時のこと」
香織はしばらく考えてから、「ああ」と言った。「あの夜か」
「俺が声をかけられなかった夜だ」
「私も、呼びかけたかったけど呼べなかったな。あの夜は」
「そうか」
「でも今はここにいるよ」
「そうだな」
俺は縁側の外に見える庭を見た。暗くてトマトの苗は見えなかった。でも、ちゃんとそこにある。明日、また水をやる必要がある。
「来週、ローズマリー買いに来る時、山田さんちの猫もいるか確認しよう」と香織が言った。
「あいつ、まだうろついてるのか」
「最近また見かけた。白と黒の、あの子」
「じゃあ確認しよう」
「うん」
縁側に並んで、夜の庭を眺めた。
特別なことは何もない夜だ。
それが、十分すぎるほど良かった。




