Ep.05 倉敷
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
神戸を離れ、列車に揺られながら、俺はさっき食べたバーガーの味を思い出そうとした。
けれど、舌の感覚よりも先に、なぜか耳の奥から声が蘇る。
「もういいよ」
窓の外、流れていく瀬戸内の穏やかな海。
列車の揺れに合わせて、その声がリフレインする。
十三年。その月日を、彼女はたった五文字で終わらせた。
何が「もういい」のか、今でも分からない。
俺の撮る写真が、もういいのか。
俺と一緒にいる時間が、もういいのか。
それとも、俺という人間そのものが、もう。
指先が、無意識にカメラバッグのストラップに食い込んでいた。
瀬戸内の海は、神戸で見た海よりも柔らかく、夕陽に照らされて黄金色に輝いている。
だが、心の中はまだざわついていた。
相棒を手に取り、液晶に表示された一枚を何度も指でなぞる。
小さな光の粒が跳ねる海と空が交ざるような写真。
現実より少し遠い場所で、俺の気持ちはまだ揺れていた。
乗り換えを経て、倉敷に着いたのは午後五時前。
駅前は観光客もまばらで、観光の賑わいは影を潜め、生活の気配が残っていた。
ここへ来た目的は、彼女にプレゼントしてもらったデニムの店だ。
八年前。倉敷に遊びに来たときに彼女が選んでくれたこのデニム。
今の俺には、形見のようにも感じられた。
駅の出口を出て、街をゆっくり歩く。
夕暮れの光が地面を淡く照らし、建物の影が長く伸びる。
ホテルに向かう途中、腹ごしらえをしようと居酒屋の前で立ち止まる。
薄暗い暖簾の奥から、木の香りと酒の匂いが漂ってくる。
戸を押して中に入ると、テーブル席はほぼ埋まっており、外の静けさとは対照的に賑やかだ。
注文を済ませ、隣の席に目をやると、女性の指が藍色に染まっているのが目に入った。
染料の跡か、それとも手先の作業でついたものか。
そのムラは、手の持つ時間が伝わってくるようだ。
何かを作る人の手なのだろうか。
日常の風景でも強く目を引く。
俺は無意識に、自分の指をカメラバッグのストラップに絡めていた。
手元の軽さや動きに、まだ神戸の海や光景の余韻が残っている。
注文した料理が運ばれてくる。
香りが鼻をくすぐり、目の前の小鉢に盛られた色鮮やかな食材に思わず唾を飲む。
手をつける前にスマホを取り出すか迷ったが、結局そのまま料理に集中することにした。
今の俺は、誰に見せるためでもない。
味や感触を、目と舌と鼻で直接感じる。
箸を動かすたびに、現実と過去の記憶が交錯する。
にこにこと、美味しそうにご飯を頬張る幻影が薄くなる。
時間は過ぎ、状況も変わった。
だが、記憶の中の光景は、まだ俺の胸に温もりを残していた。
食事を終え、支払いを済ませる。
外に出ると、倉敷の夜は静かで、どこか落ち着きを覚える。
ホテルにチェックインし、部屋に入るとドッと疲労を感じた。
ベッドに腰を下ろし、スマホに手を伸ばす。
──これでもいいかも
昼に撮った写真を見返せば、心の中のざわつきが少しずつ落ち着いていくのを感じる。
夜が深まり、窓の外が濃い闇に包まれる。
部屋の明かりの中、画面を確認しながら、俺は小さく息をつく。
「明日は、お前で撮れるといいなぁ」
相棒を撫でる。
どうかシャッターを押せますように、と。
ベッドの上に置き、しばらく眺める。
撮れなかった日。
何も残らなかった時間。
ポケットからブロアーを取り出し、レンズに向ける。
シュッ、シュッ、と乾いた音が部屋に溶けていく。
もう一度。
もう一度。
それでも、何かが取れない気がした。
──汚れているのは、レンズじゃない
そんな考えが一瞬よぎって、手が止まる。
小さく息を吐き、レンズに白く曇りを落とす。
それを布で、ゆっくりと円を描くように拭う。
円を描くように、何度も。
昔から変わらないやり方なのに、今日は妙に時間がかかる。
こんなふうに手入れをしている時間だけは、
何も考えなくて済む。
意味なんてない。
けれど、やらずにはいられなかった。
ファインダーの埃やセンサーの汚れもチェックする。
──明日は撮れるだろうか
拭き終えたレンズに、自分の顔がぼやけて映る。
ピントが合わないのは、レンズのせいじゃない。
あの一枚。
海と空の境界を切り取った、何でもない写真。
あのとき、何が違ったのか。
何が噛み合ったのか。
円を描く指先に、感触をなぞるように意識を向ける。
上手く撮ろうとしなくていい──
下手でもさ──
ふと、声が重なるように蘇る。
力が入りすぎていた指先が、ほんの少しだけ緩んだ。
拭き終えたレンズを、もう一度覗き込む。
何も変わっていない。
それでも。
「……明日は」
わずかに、言葉が続く。
「もう一回、」
今はそれでいいと思えた。
ピントが合っていなくても、見ようとしているだけで、十分だと。
翌朝八時半。
空気は少し冷たさを残していて、まだ街に馴染みきっていない。
けれど、春の陽射しがやわらかく降り注いでいる。
ホームに滑り込んできた列車に乗り込み、窓際に腰を下ろす。
走り出してしばらくは、昨日と何も変わらない景色が続く。
岡山で乗り換えて、ビルやマンションなどの高い建物が流れていき、都市が見えなくなっていく。
チラホラと緑が増え、のどかな郊外の雰囲気がだんだんと濃くなってくる。
川を過ぎ、緩やかにカーブする頃には、田んぼの平野が広がった。
三月下旬の今は、まだ冬の名残を残す土の茶色がまばらに残るなかに、わずかな菜の花の黄色や春の芽吹きが混じり始めている。
夏ならば青々とした稲が風に揺れるだろう。
車窓からは窺えないが、田畑には春の兆しが芽吹いているに違いない。
淡い光が差し込み、白い雲がゆったりと流れている。
木々が茂る森を抜ければ、また町が広がる。
見え隠れしているのは、瀬戸内海のきらめきだろうか?
そう思うと、徐々に潮の匂いが近づいてくるような気さえする。
瀬戸内の柔らかな光が車内まで差し込んで、港町らしくなってくる。
ふと、昨夜見かけた藍色の指先が頭を過る。
均一さじゃなくて、残ってしまう個体差。
デニムの生地を軽くつまむ。
選んでくれた、この一本。
理由なんて、大したものじゃない。
ただ、もう一度見てみたくなった。
ふぅ、と息を吐いて、背もたれに体を預ける。
列車はゆっくりと、けれど確実に目的地へと向かって進む。
工業地帯のような町を縫って辿り着いた児島駅のホームに降り立つと、吹き抜ける風がわずかに塩分を含んで重たかった。
改札へ向かう階段の足元にも、見上げる天井にも、藍色のデニム地がデザインされている。
高架の上から見下ろす町並みは、どこか青みがかって見える気がする。
ここが、このデニムが生まれた場所。
重いカメラバッグを肩にかけ直し、俺はゆっくりと階段を下りた。
改札を抜け、人の流れに紛れる。
ふと、視界の端で、藍が揺れた。
認識が遅れ、通り過ぎる。
足が止まり、振り返る。
あの指だ。
昨夜の、あの指。
染料の色なのか、それとも。
──もし、あれが
デニムの店を探すつもりだった。
それだけのはず、なのに。
あの藍色の指が、頭から離れない。
視線の先で、女性は混雑を抜けて、そのまま外へ向かっていく。
ほんの一瞬、迷う。
店か、あの指か。
──どっちでもいいか
小さく息を吐いて、足を踏み出す。
気づけば、同じ方向に歩いていた。
外の光に触れた瞬間、一度だけ、女性の手元がはっきりと見えた。
藍が、朝の光を吸っている。
横から流れてきた団体客に視界を塞がれ。
たくさんの声と足音が重なった、ほんの数秒。
抜けたときには、もういなかった。
立ち止まる。
周囲を見渡しても、さっきの藍はどこにも見当たらない。
追えば、まだ間に合うかもしれない。
けれど、足は動かなかった。
だらり、と垂れた手がデニムを軽く撫でる。
──まあ、いいか
もともと、探しに来たのは別のものだ。
顔を上げる。
駅前の案内板。
『ジーンズストリート』の文字が目に入る。
視線を一度だけ、人の流れに戻す。
もう、あの色は見えない。
踵を返す。
ゆっくりと、案内の矢印の方へ歩き出した。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




