Ep.04 直美
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
夢見ていたキラキラとした世界は、とても重く苦しいものだった。
何せ、正解がない。
光を追い求めても、形にできなければ消えてしまう情景。
指先からすり抜けるように、現実はいつも冷たく感じた。
カメラを手にしていたあの頃の私は、答えを探すことだけに必死だった。
ピント、構図、露出、感情──。
すべてを完璧にしなければ、写真は成立しない。
それが重くて、苦しくて。
いつの間にか私の手から、夢は滑り落ちた。
「ありがとうございました」
引っ越し業者が去った後の部屋は、驚くほど声がよく響いた。
十数年前に持ち込んだ荷物は、結局、半分以下の思い出になってゴミと消えた。
最後にもう一度だけ、あの海を見てから帰ろう。
そう決めて、私は港へ向かった。
初めて神戸に来たあの日、一番最初に乗った遊覧船。
期待と不安で震える手で握りしめていたチケット。
そして今日、地元へ戻るための準備を終え、がらんとしたアパートの鍵を返した後に手にしたチケット。
潮の匂いがする薄い紙切れを握って乗船したあの日は、デッキから見る六甲山と港の景色が、まるで新しい人生の幕開けを祝っているように見えたのを覚えている。
石川の冬の海のイメージが強かった私にとって、初めて乗った神戸の遊覧船から見る海は、あまりにも穏やかで受け入れられているように感じたのだ。
そして今日、私はまた船に乗っている。
これから石川へ帰る。
夢を諦めた、敗者の如き面持ちで。
変わらない潮の匂いが、かえって鼻の奥をツンと突いた。
神戸の海は、私の故郷である石川の海とは、どこか匂いが違う。
突き刺すような日本海の厳しさはなく、どこまでも穏やかで、余所者に優しい。
だからこそ私は、この街で夢を見すぎてしまったのかもしれない。
今、私の肩には、カメラバッグの重みも、夢の熱量もない。
「……さて、帰りますか。石川の、あの荒い海へ」
独り言は、潮風にさらわれてすぐに消えた。
あの頃は、何も知らなかった。
まだ無邪気に、世界が自分の手の中で輝くと思っていた。
何も知らずに夢に飛び込んだ。
あの頃は、まだ無邪気だった。
ここを“夢の出発点”だと思っていた。
港から見える景色は、どこまでも新しくて、シャッターを切るたびに自分の未来が刻まれていくような錯覚を与えてくれて。
──カメラマンとして生きていく
そう信じて疑わなかった十八歳の私は、がむしゃらにお金を貯めて、憧れだったフランスのモン・サン・ミッシェルへ飛んだ。
ずっと憧れていた聖地で、最高の光の中で。
夢中になってシャッターを切った。
あの地で撮った写真は、私の誇りで、すべてだった。
イベント露店でそれを並べ、誰かが足を止めてくれるのを待つ時間は、寒ささえ心地良く感じた。
なのに。
「……なんで、こうなっちゃったのかな」
デッキに出ると、風が容赦なく髪を乱す。
結局、私はカメラを仕事にはできなかった。
撮れば撮るほど、“正解”を求めて私は自身を追い詰め、一番好きだったはずのモン・サン・ミッシェルの写真さえ、いつの間にか“売るための商品”にしか見えなくなっていた。
本当は、現像した写真を見たときに、“これは誰が撮っても同じだ”と気づいてしまっていたのかもしれない。
自分の個性が、あの圧倒的な景色の前で消えてしまった瞬間の無力感。
あまりにも完成されすぎていた完璧の前で、自分の技術ではこの美しさに勝てないことに、気付かないフリをしたのだろうか。
その上でこれを撮り終えたら、次に何を、どう撮ればいいかわからない、という頂点を見てしまった絶望。
自分の魂を削って撮った写真を、路上で値切られ、切り売りしていくうちに、自分の中の“撮りたい理由”が削り取られて。
夢の終わりは、静かだった。
挫折というよりは、電池が切れるように、そっとカメラを置いただけ。
それから、私は撮ることをやめた。
重すぎるFUJIFILM GX645AFはクローゼットの奥の防湿庫で沈黙し、私はただの会社員になった。
それから年月が過ぎ、夢を諦めた私は可もなく不可もない平凡な日々を生きるようになった。
神戸での暮らしを畳むと決めてから、私の視界からは少しずつ色が消えていった。
これで終わりにする。
そのために乗った船で、一人客が目に留まった。
──もしかしたら、今の私の目の前にいる人と記憶のなかの二人は、つながっているのかもしれない
船のデッキで見たことのあるカメラを手にする男性を見たとき、そんな気持ちが胸をかすめた。
十三年前の冬、まだ路上で風景写真を並べて売っていた頃。
寒さに手をかじかませながらも、シャッターを切った光景を人に見てもらえる喜びだけで、少しは満たされていた。
ふと通りかかったカップルが立ち止まり、女の子が二枚の写真を買った。
いつもとは違う撮り方にチャレンジした、少し露出のアンダーな、けれど空気感だけは宿っていた写真を選んでくれた彼女。
「これ、宝物にする」
モン・サン・ミッシェルのパノラマ写真を二枚、大事そうに胸に抱えた女の子がいた。
あのときの彼女の笑顔が、私のカメラマンとしての最後のご褒美だったのかもしれない。
D800E。女の子の隣にいた男の子が下げていた機種。
ストラップが、あの頃見たものと似ている気がする。
でももちろん、確かめようはない。
ただ、懐かしさと違和感が同時に襲ってくるだけだ。
「写真、撮らないの?」
「……そのつもりだったんですけど、ちょっと…」
「ふーん」
デジタルになっても、結局みんな同じように、見えない正解に怯えてシャッターを切っているのか。
「もったいないね」
ぽろり、と零れ落ちた言葉に、自分で驚いた。
「え?」
「撮れるのに、撮らないの」
D800E。解像力のお化けを相棒として持ち。
細かな傷はありながら、けれど大切に扱い。
誰かを失くした道紀くんも、きっと“正解”に苦しんでいる。
それでも、カメラを持ち続けるのは。
「カメラマンとして続けるってさ、才能いるよ」
正解が分からなくなっても、カメラを持ち続ける才能が。
撮ろうとする、才能が。
私には、なかったものが。
思い出は便利だ。
自分のなかで好きにできる。
もしかしたら、あの頃の完璧なモン・サン・ミッシェルも、本当は完璧ではなかったのかもしれない。
折れる理由を、探していたのかもしれない。
「……ちゃんと、見てた?」
私は、見てなかったのかもしれない。
生まれ育った故郷も。
夢の聖地も。
「ちゃんと撮らないんだね」
相棒とともにいるのに。いれるのに。
どうしてちゃんと撮らないのだろう、と不思議に思った。
スマホでは、ちゃんと撮る感じ、しないのに。
「…今は怖いんです。ちゃんと撮ろうとすると、全部が重すぎて……でも、これなら気楽に撮れる。逃げかもしれません。だけど、まだ触れるんです」
なるほど。と思った。
ズルい。とも感じた。
──いいな、こういう自由さ
思い出してしまうのが辛いから、あえて見たくなかった。
ファインダーを通した光景が、変わってなくても辛いし、変わってても辛い。
ときの流れを感じるから。
でも、他の選択肢があるのなら。
「ねえ……変なこと聞いていい?」
急に確かめたくなった。
あのときの二人は彼らなのか。
でも、直球では聞けない。
だから。
「なんで、船に乗ろうと思ったの?」
「……わからないです。昔、彼女と乗った気がして」
──ああ、もしかしたら、彼女らなのかもしれない
あの時、私を救ってくれた女の子。
今度は、君が、私を救ってくれるのか。
「……撮りなよ。下手でもさ」
「………ありがとう。直美さんも」
船を降りるときに、お互いにエールを送った。
少し離れたところで、しばらく、海を眺めた。
スマホで一枚、モン・サン・ミッシェルで見たときとは少し違う、光の粒が跳ねる海を撮る。
「上手く撮ろうとしなくていい」
彼に言った言葉を自分に返す。
地元に帰ったらもう一度、埃を被った相棒を取り出そう。
見ないようにしまいこんだ重い、重い、FUJIFILM GX645AF。
今の私は、少しだけ慎重になったけれど、まだ写真を手に取ることができるかもしれない。
スマホに映る海は、あの完璧な光景をほんの少しだけ思い出させる。
画面の上から、軽くなぞる。
カメラほどの重さはまったくない。
なるほど、確かに気軽だ。
あのときの光や景色の記憶が、今の景色と重なって。
「神戸で過ごした時間も、無駄じゃなかったんかなあ」
ほんの少しだけ私の胸を温めた。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




