Ep.21 苅田
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苅田駅の改札を抜けた瞬間、昼の光が一段と強くなったように感じた。
春の陽射しは柔らかいはずなのに、胸の奥の緊張を照らし出すようで、思わず目を細める。
駅前のロータリーにはタクシーが数台停まっている。
陽の家までは歩いて十五分ほど。
何度か通った道なのに、足が重く感じる。
勝手に速度が落ちていく。
歩幅が小さくなるたび、胸の奥のざわつきが形を変えて膨らんだ。
駅前の信号を渡ると、工場地帯へ向かう大きな道路が広がる。
昼の光を受けた銀色のタンクが遠くに並び、その向こうで海が細く光っていた。
潮の匂いは届かないのに、胸の奥でふっと蘇るような感覚がある。
陽と初めて苅田に来た日のことを思い出す。
駅を出た瞬間、陽は嬉しそうに笑っていた。
「のりくん、ここ、空が広いでしょ」
その声が、今も耳の奥に残っている。
歩きながら、スマホを取り出して画面を確認する。
通知はない。
メッセージの既読もついていない。
胸の奥が少しだけ沈む。
──気づいてないだけかもしれない
──気づいてるけど返せないのかもしれない
──そもそも返す気がないのかもしれない
考えれば考えるほど、どれも正しくて、どれも違う気がした。
指先がわずかに震えた。
カメラバッグのストラップを握り直そうとしたが、力の入れ方が分からない。
手のひらがじんわりと熱くなり、逆に指先は冷えていく。
視界の端で人々が行き交うのが見えるのに、その動きが妙に遅く感じられた。
まるで自分だけが別の速度で世界に取り残されているようだった。
住宅街に入ると、空気が少しだけ静かになる。
陽の家まであと数分。
陽の実家の前に初めて立った日のことを思い出す。
玄関の前に置かれた植木鉢。
陽の母親が笑いながら出迎えてくれた声。
あのとき陽は、少し照れたように俺の袖を引いていた。
その仕草が、今になって胸の奥でじんと痛む。
角をひとつ曲がれば、あの白い家が見えるだろう。
足が止まった。
止まったというより、地面に縫い付けられたように動かなくなった。
深呼吸をしようとしたが、胸がうまく開かない。
喉の奥が乾き、舌が上顎に張りつく。
カメラバッグのストラップを握る指先に汗が滲む。
──行けよ
──行かなきゃ何も変わらない
──でも、行ったら終わるかもしれない
胸の奥で、何度も同じ言葉が往復する。
角の手前で立ち止まり、空を見上げた。
淡い水色の空に、薄い雲がゆっくりと流れている。
陽なら、今日の空をどんなふうに言うだろう。
「……っ」
小さく息を吐き、足を一歩前に出した。
角を曲がる。
視界が開ける。
白い外壁が、昼の光を受けて少し眩しい。
塀の影が地面に落ち、風がその影を揺らしていた。
その瞬間だった。
「……のりくん?」
背後から、自分の名前を呼ぶ声がした。
胸の奥が跳ね、呼吸が止まる。
身体が一瞬で固まり、振り返るまでの一拍が妙に長く感じられた。
呼ばれた名前が、胸の奥のどこか深い場所を直接叩いたような感覚があった。
その響きが、記憶の底に沈んでいた何かを揺らす。
喉の奥がきゅっと締まり、息がうまく入ってこない。
それでも、振り返らなければという思いだけが、背中を押してくる。
ゆっくりと、固まった首を動かす。
振り返るまでのわずかな動作が、やけに重く、遠い。
胸の鼓動が耳の奥で反響し、視界の中心がじんわりと明るくなる。
その瞬間、足元がふっと浮くような感覚がした。
視線が合った。
胸の奥に溜まっていた空気が、一気に抜け落ちる。
張り詰めていた全身の力がほどけ、膝が少しだけ揺れた。
陽が立っていた。
買い物袋を片手に、少し驚いたような、少し戸惑ったような表情で。
風に遊ばれている髪が、光を受けて柔らかく揺れている。
目元は変わらない。
笑うときに少しだけ下がる、あの形のままだった。
「……え、なんで……?」
陽の声は、驚きと戸惑いと、ほんの少しの懐かしさが混ざっていた。
言葉が出なかった。
喉の奥が固まり、声にならない空気だけが漏れる。
陽は買い物袋を持ち直し、少しだけ眉を寄せた。
「、一応、連絡はした、んだけど…突然ごめん…」
「え?嘘?メッセージ?……ごめん。気づいてなくて」
その一言が、胸の奥の緊張をふっとほどいた。
同時に、何かがじんと痛んだ。
陽はゆっくりと歩み寄ってくる。
その距離が縮まるたび、十三年分の記憶が胸の奥でざわめいた。
「……のりくん、いらっしゃい」
その声は、責めるでもなく、喜ぶでもなく。
ただ、事実を確かめるような、静かな響きだった。
言わなければ。
かすかに息を吸った。
「……会いたかった」
ようやく零れたその言葉が、昼の光の中で小さく震えた。
陽は目を見開いたまま、何も言わなかった。
風だけが二人の間を通り過ぎる。
一度、家の方へ視線を向けた陽が少し考えるように唇を結ぶ。
「……少し歩こっか。すぐそこに、公園あるから」
ここだと立ち話になっちゃうし、と促して。
買い物袋を持ち直し、横に並ぶ。
二人の影が午後の光に伸び、歩幅が自然に揃っていく。
並んで歩くのは、いつぶりだろう。
まだ一週間くらいしか経っていないのに。
歩幅を合わせる感覚が、少しだけぎこちない。
それなのに、懐かしく感じてしまう。
言葉はまだ少ない。
けれど沈黙は重くなく、胸の奥に残った震えをそっと落ち着かせるようだった。
公園の入口が見えた頃、陽が少しだけ笑う。
「……あ、あのベンチ、空いてる」
風に揺れる木漏れ日の下、二人はゆっくりと腰を下ろした。
「のりくんは、ホントずるいなあ」
「……ごめん」
「ううん」
陽は首を振った。
それから視線を横に流し、小さく息を吐く。
「私も今、頭真っ白だから」
「……陽」
呼んだ瞬間、喉がつまった。
「俺……謝りたいことがあるんだ」
神戸、倉敷、広島、下関。
陽と巡った思い出の地。
各地を旅して気づいた。
「いろいろ……思い出せないことがあって」
陽が振り返る。
その目が責めていないことが、逆に苦しかった。
陽の指先が買い物袋の取っ手をそっと握り直す仕草が、やけに静かに見える。
その静けさが、余計に胸を締めつけた。
「……十三年分の思い出、全部覚えてるつもりだった。でも……最近、ところどころが曖昧で、混ざってて……思い出そうとすると、抜け落ちてるところがあるんだ」
言いながら胸が痛んだ。
忘れたくて忘れたわけじゃない。
でも、忘れてしまった。
「……ごめん。覚えてるはずのことが、曖昧で」
「曖昧でもいいよ」
陽は、まるで天気の話でもするみたいに微笑った。
「よくない。陽とのことなのに俺は、」
「それだけ濃密だったんだよ、十三年って。だから、覚えてたり、覚えてなかったりするんじゃない?」
「でも……そんなの、陽は嫌じゃなかったのか」
「一人だったら、気になったかもしれない。でも私とのりくんじゃ受け取りかたが違うでしょ?」
だから心に残るシーンも違うんだよ。
陽はやわらかく笑った。
「でも、二人いれば、曖昧なところは補えるでしょ。私が覚えてるところを、のりくんが忘れててもいい。私が曖昧なところは、のりくんが覚えてる。ずっとそうだったよ」
だって、二人でひとつの“思い出”なんだから。
陽の声は、春の光みたいに柔らかかった。
「……それでも、忘れたくなかったんだ。俺たちのこと、全部」
声が震える。
胸の奥でせり上がった言葉は、喉まで来ていたのに、どうしても形にならなかった。
言ってしまえば、きっと何かが決定的に変わってしまう。
陽の横顔を見た瞬間、その未来があまりにも鮮明に浮かんでしまった。
──だって、もう二人じゃないじゃないか
その事実が、思っていた以上に重かった。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




