Ep.20 苅田
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
列車が小倉駅を離れた瞬間、車体がわずかに揺れ、その振動が座席の背もたれを通して静かに伝わって、胸の奥のざわつきと重なった。
ゆっくりと速度を上げていく車窓に昼の光が反射し、ホームに残る人影を淡く照らす。
その光の揺れが、ふいに陽の笑ったときの目尻の柔らかさを思い出させた。
後ろへ流れていく駅名標が、まるで背中を押すように遠ざかっていく。
窓の外では、ビルの隙間を縫うように線路が伸びている。
並んだ室外機、駐車場の白線。
都会とも地方とも言い切れない景色が、一定の速さで後ろへ流れていった。
ビルのガラスに映る空の色が変わるたび、陽がよく言っていた言葉が胸の奥で蘇る。
「空の色って、毎日違うんだよ」
その声の軽さが、今はやけに重い。
窓の外の空は淡い水色で、雲がゆっくりと形を変えていた。
陽なら、今日の空をどんなふうに言うだろう。
そんなことを考えてしまう自分が、少し情けなかった。
窓際に身体を預け、ぼんやりと外を見る。
車内は昼特有の静けさに包まれていた。
学生の笑い声も、朝の通勤客の慌ただしさもない。
吊り革だけが揺れに合わせて小さく鳴る。
向かいの席では、年配の夫婦が小さな声で昼飯の話をしていた。
少し離れた場所では、スーツ姿の男が目を閉じている。
誰も他人に興味を持っていない空気が、今はありがたかった。
街のざわめきは遠のき、代わりに列車の規則的な走行音が耳に馴染んでいく。
南小倉を過ぎる頃、住宅街の屋根が昼の光を受けて鈍く光る。
洗濯物が風に揺れ、その動きが陽の笑い方と重なった。
肩を揺らして笑うあの感じ。
誰かの日常が静かに続いている。
その穏やかさが、胸の奥のざわつきをほんの少しだけ和らげた。
やがて、遠くに山の稜線が見えてくる。
冬の名残をわずかに抱えた深い緑が、空の青とゆっくり溶け合っていた。
列車がカーブに差しかかると、車体が傾き、景色が滑るように流れていく。
その動きに合わせて、胸の奥の記憶も勝手に動き出す。
「のりくん、こっちの席のほうが景色いいよー」
そう言って、陽はいつも窓側を譲ってくれた。
俺は景色なんてほとんど見ていなかったのに。
ただ、陽が隣にいることだけで十分だった。
下曽根に近づくと、視界が一気に開ける。
広い空の下に、工場地帯の銀色の屋根が規則正しく並び、太陽の光を反射してまぶしく光った。
その光の強さが、陽の笑顔の明るさと重なる。
どんな日でも、あいつは笑っていた。
その笑顔に、どれだけ救われていたか。
今さら気づくなんて、遅すぎる。
十三年。
長かったはずなのに、思い返すと途切れ途切れだ。
旅行に行った日。くだらないことで笑った夜。
コンビニでアイスを選びながら揉めたこと。
陽が眠そうな顔でソファに沈んでいた休日。
そんな断片ばかりが浮かんでは消えていく。
煙突から立ちのぼる白い煙が、風に押されながらゆっくりと上へ流れていく。
その白さは、どこか頼りなく、けれど確かに空へ向かって伸びていた。
海が見え始めたのは、その少し後だった。
最初は細い帯のように、遠くの光の中で揺れているだけだったが、列車が進むにつれてその存在感が増していく。
水面が広がり、光を散らす。
そのきらめきが、陽の声の余韻みたいに胸の奥で弾けた。
「海って、落ち着くよね」
陽はよくそう言っていた。
海を見ているときの横顔は、いつも少しだけ遠くを見ているようで、触れられない場所にいるみたいだった。
その距離に気づいていたのに、見ないふりをしていた。
光を受けた海が、その向こうで白く滲む。
きらきらと反射する水面は、まるで無数の小さな欠片が散らばっているようで、目を細めたくなるほど眩しい。
潮の匂いは届かないはずなのに、胸の奥でふっと蘇るような感覚があった。
電車が揺れる。
その振動に合わせるように、胸の奥も落ち着かないまま揺れていた。
会ったら、何を言えばいいんだろう。
──なぜ終わりなのか
──俺が何もしなかったからいけなかったのか
──もう、無理なのか
考えるほど、どれも違う気がした。
本当に聞きたいことは、もっと単純なのかもしれない。
──まだ、俺にチャンスはあるのか?
そんな言葉、口にできるわけもないのに。
ホームに立つ制服姿の学生。
自販機の赤。照り返すコンクリート。
そのどれもが、妙に現実的で。
逆に自分だけが現実から浮いている気がした。
ふと、窓に映る自分の肩へ視線が落ちる。
そこに陽の手が乗る感覚を、身体だけがまだ覚えていた。
馬鹿みたいだと思う。
別れた相手に会いに行くためだけに電車へ乗って、心臓を掴まれたみたいに緊張している。
十代のガキじゃあるまいし、と自分で呆れそうになる。
それでも、会わずに帰る未来だけは、どうしても想像できなかった。
苅田が近づくにつれ、遠くに工場の巨大なタンクやクレーンが視界に入る。
無機質な風景なのに、どこか温度がある。
どこか生活の息づかいがある。
働く人々の姿は見えないが、昼の光に照らされたその風景は、確かに“動いている時間”を感じさせた。
陽と歩いた街の記憶が、風景の隙間から滲み出してくる。
「ここ、夜になると綺麗なんだよ」
あのとき俺は、ただ頷いただけだった。
けれど今思えば、陽はあの景色を“誰かと共有したかった”のかもしれない。
意味を深く考えたことがなかったけれど、あのときの陽は何を思っていたのだろうか。
列車が速度を落とし始め、車輪の音が低くなる。
車輪がレールを擦る振動が、床下から響いた。
「次は、苅田―、苅田―」
車内アナウンスで流れた瞬間、喉がひどく乾いた。
手のひらが汗でじっとりと湿っている。
陽の故郷に足を踏み入れるというだけで、胸の奥がざわつく。
まるで、陽の時間に触れることを許されるのか試されているようだった。
窓の外で海と街と空が重なり、ひとつの景色としてまとまっていく。
その静かな変化を眺めながら、胸の奥の痛みがゆっくりと形を変えていくのを感じた。
苅田駅のホームが見えてくる。
白い駅名標が近づき、列車の影がホームに重なる。
ブレーキの振動が足元から伝わり、車体が静かに止まる。
ゆっくり息を吐き、膝の上のカメラバッグへ視線を落とした。
ストラップを握る指先に、じわりと汗が滲んでいる。
窓の外では、春の光を受けた線路が白く光っていた。
胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。
逃げたいわけじゃない。
ただ、十三年分の時間が、今になって一気に肩にのしかかってくるみたいだ。
扉が開く前の、ほんの一瞬の静寂。
その短い間に、陽の声がふっと胸の奥で響いた。
「のりくん、ようこそ苅田へ」
幻のような声だった。
けれど、その一言が背中を押した。
胸の奥で何かが小さく鳴る。
前へ進むための音だった。
故郷に帰るときの陽の表情が、俺は好きだ。
もうすぐ。
その実感だけが、胸の奥で静かに形になっていく。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




