Ep.19 小倉
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
店員がトレイを片手に近づいてきた。
二人の間に漂っていた重たい空気が、わずかに揺れる。
テーブルの木目は、朝の光を吸ったように柔らかい。
「お待たせしました。ブレンドと、アメリカンです」
淡々とした声が、張りつめた会話の糸をそっと切る。
カップの底が触れた瞬間の、少し重たい“コトッ”という音が、この店特有の落ち着きを思い出させた。
深煎りの香りがゆっくりと漂い、木の壁に反射して滞留するようだ。
カップから、湯気が静かに立ちのぼる。
は軽く会釈し、店員が離れていくのを見届けてから、ふっと息をつく。
「……まあ、飲め」
「冷めるとまずいしな」
その言い方が妙に優しくて、胸の奥が少しだけ緩む。
俺はカップを手に取り、縁に触れた熱を確かめるように指先でなぞった。
一口飲むと、少し熱いくらいの熱が喉の奥に落ちていく。
その温度が、さっきまで胸の中で渦巻いていたざわつきを少しだけ溶かしていくようだった。
輝生が黙ったままカップを回す。
その小さな動きに合わせて、コーヒーの表面がわずかに揺れた。
店内のスピーカーから流れる曲が、ちょうどサビに差しかかったところで、その明るさが今の空気と妙に噛み合わない。
俺は視線を落としたまま、カップの縁を親指でなぞる。
熱はさっきと変わっていないのに、指先だけがじんと痺れているようだった。
言葉を探しているわけじゃない。
ただ、何を言っても薄っぺらくなる気がして、口を開けなかった。
窓の外を、人の影がチラホラと流れていく。
それぞれの速度で、それぞれの方向へ。
その動きが、今の自分の停滞を逆に際立たせる。
駅のホームから微かにアナウンスが漏れ、列車のブレーキ音が低く震えて届く。
外の時間だけが規則正しく進んでいる。
なのにここだけは別の速度で流れているようで、その静けさが逆に胸のざわつきを際立たせた。
輝生がふっと息を吐く。
「……」
沈黙が続く。
けれど、その沈黙は重くはなかった。
むしろ、言葉よりも正直なものがテーブルの上に置かれているような、 そんな静けさだった。
カップを持ち上げ、少しだけ冷めたコーヒーをひと口だけ飲む。
苦味が舌に広がり、喉の奥に落ちていく。
その感覚が、妙に現実を引き戻した。
輝生がゆっくりとこちらを見る。
その視線に、逃げ場はないのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
ただ、昔から変わらない目だ。
促すように、待ってくれている。
その目を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた言葉が、ようやく浮かび上がってくる気がした。
「……十三年だぞ。あの五文字で全部終わったなんて、どうしても思えない。何が“もういい”だったのか……聞かないと、前に進めない気がする」
たった一週間しか経っていないのに、十三年分の記憶が急に形を変えて押し寄せてくる。
別れた瞬間より、今のほうがずっと痛い。
何をしていても、陽の声や癖がふいに浮かんで、胸の奥がきゅっと縮む。
十三年という時間は、思い出じゃなくて“生活そのもの”だった。
だから切り離したつもりでも、まだ身体のどこかに残っている。
あの五文字を受け取ったとき、怒りでも悲しみでもなく、ただ現実が遠のくような感覚だけがあった。
終わったと言われたのに、終わった実感がどこにもないのかもしれない。
もし会って、本当に終わりだと告げられたら──その瞬間、十三年が完全に過去になる。
それが怖い。
けれど確かめなければ、ずっと宙ぶらりんのまま、陽の影だけを抱えて生きることになる。
それもまた、同じくらい怖かった。
輝生は頷き、コーヒーを一口飲んだ。
その仕草は落ち着いていて、らしい“間合い”がある。
「道紀。俺はさ、仕事柄、人の言葉の裏とか、沈黙の意味とか、そういうのを考えることが多いんだけど」
そこで一度、俺の目を見る。
ただ、ジッと。
何かを確かめるように。
「“返事がない”っていうのも、ひとつの意思表示なんだよ。でもそれは、“会いたくない”とは限らない」
言っている意味が分からず、眉を寄せた。
「……?どういうことだよ」
「簡単に言うとさ。“どう返せばいいか分からない”って状態もあるってこと。特に、長く一緒にいた相手ならなおさらだ」
輝生は指先でテーブルを軽く叩き、言葉を続けた。
「だからこそ、会いに行くっていう“選択”は、お前の側にしかできない。相手の返事を待つだけじゃ、何も動かないままになる」
なんで、船に乗ろうと思ったの?──
思い出のなかだけでも、陽に会いたかった。
あの時の俺は、現実から逃げるように海を見ていた。
潮の匂いに紛れて、陽の笑い声だけがやけに鮮明で、思い出の中にしか触れられないのが苦しかった。
どっちがいいかは、欲しい色次第──
結局選んだものは、陽が基準だった。
どっちが自分に合うかなんて、本当は分かっていた。
それでも手が伸びたのは、陽が好きだったほうだった。
癖みたいに、当たり前みたいに。
陽を基準にしてしまう自分が情けなかった。
無理かもしれないけど、やるんスよ──
会いたくて、電車に乗った。
行くべきじゃない理由はいくらでもあったのに。
気がついたら駅にいて、電車のホームに立った瞬間、全部どうでもよくなった。
ただ会いたかった。
会って、終わりでもいいから、陽の声をもう一度聞きたかった。
陽ちゃん、よう笑う子じゃったな──
ただ、笑ってほしかったんだ。
陽の笑顔は、どんな日でも俺の気持ちを軽くしてくれた。
別れて一週間しか経ってないのに、その笑顔がもう手の届かない場所にあると思うと、胸の奥がじんと痛んだ。
「返事が来ないってのは……陽ちゃん、まだ気持ちの整理がついてないだけなんじゃねえの?」
俺はカップを置いて、指先で取っ手をいじりながらゆるく首を振る。
「分からん。ただ……あの時、俺は、何も言えなかったから」
輝生はしばらく黙っていた。
「……道紀」
視線を上げた先。
穏やかな瞳には、微かな笑みと深い信頼だけが宿っている。
「お前さ、その日のこと……ずっと自分の中で止めてたんだな」
その言葉に何かがつっかえて、返す言葉が見つからない。
輝生はカップを両手で包み込み、ゆっくりと続ける。
「でも、止めてたもんを動かすには……会いに行くしかねえだろ。返事が来るのを待つより、自分で確かめた方が早い時もある」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
苦いコーヒーの後味と混ざり合って、浸透するように広がる。
「……でも、怖いんだよ。会って、本当に終わりだって言われるのが」
輝生はふっと笑った。
「怖いのは、当たり前だろ。十三年だぞ?むしろ怖くなかったらおかしいわ」
そして、少しだけ声を落とす。
「でもな、道紀。確かめないままのほうが、きっと、もっと長く痛むぞ」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。
「……悩むぐらいなら行けよ。小倉まで来といて、会わずに帰るほうが後悔する」
輝生はそう言って、コーヒーを飲み干した。
「お前は、ちゃんと選べるやつだよ。昔からそうだった」
道紀はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
「……行くよ」
言葉にした途端、胸の奥がかすかに震えた。
それでも、その震えは前へ進むためのものだ。
輝生は満足そうに頷いた。
「それでいい。陽ちゃんの答えがどうであれ、お前が選んだなら、それでいいんだよ」
喫茶店の窓の外で、列車がホームに滑り込む音がした。
立ち上がり、カメラバッグのストラップを握り直す。
「安心しろ。もしフラれたら奢ってやるよ。その代わり、成功したら奢れよ」
「その言葉、忘れんなよ」
その軽口が、張りつめていた胸の奥をそっと撫でた。
揺れはまだある。
けれど、その揺れはもう、足を止めるものではなかった。
扉の向こうの光が、思ったよりも柔らかくて。
胸のざわつきが少しだけほどけた。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




