Ep.02 神戸
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
シャッターを切るでもなく、ただ海を眺めるだけの時間を、どこかで求めていたのかもしれない。
それとも──あの頃と同じ景色を、もう一度確かめたかったのか。
デッキに出ると、風がやや強くあたる。
白い船体の縁に波が当たり、音を立てていた。
あの時も、こんな音を聞いた。
そう思った瞬間、自分の記憶が急に頼りなく感じられて、思わず苦笑が漏れた。
──本当に、そうだっただろうか
乗り込んだ船内は、思っていたよりも人が少なかった。
観光客らしい家族連れと、カップルが数組。
その隅で一人だけ、場違いなほど静かに海を見ている女性がいた。
チケット売場でも見かけたその人は、どこかで見たようなと思ったが、もちろんそんなはずはない。
俺は離れたベンチに腰を下ろし、カメラバッグを足元に置く。
エンジン音が低く唸り、振動が足裏に微かに伝わる。
バッグから相棒を取り出す。
レンズのキャップを外す指が震え。
相棒のファインダーを覗いてみるが、指がボタンを押し込まない。
指先が覚えている重みと、網膜が拒絶する新しい景色。
シャッターを切るのが怖くて、俺は何度も設定をいじり直した。
「写真、撮らないの?」
顔を上げると、さっきの女性がこちらを見ていた。
「……そのつもりだったんですけど、ちょっと…」
「ふーん」
女性はそれ以上踏み込まず、また海に視線を戻す。
相棒は、残酷なほど鮮明に世界を切り取る。
かつてはそれが誇らしかった。
けれど今は、自分の曖昧な記憶を突きつけられているようで、マグネシウム合金のボディがやけに冷たく感じる。
ザァ、と船体が海を割る音。
少し間があってから、ぽつりと。
「もったいないね」
「え?」
「撮れるのに、撮らないの」
その言葉に、胸の奥の何かがチクリと痛んだ。
返事を考えるように、海を見つめる。
見える景色は同じなのに、心は少しだけ遠くに置き去りにされた気がした。
女性は、穏やかに言葉を紡ぐ。
「それ、D800Eでしょ。お兄さん、カメラマンなんだ?何て名前?私は直美」
「道紀、です」
「聞いたことないなぁ」
俺は少し苦笑する。
無理もない。
「はは、無名なんで。直美さんはカメラ詳しいんですね」
「昔、ちょっとね……それに見たことあるんだ、そのカメラ。長いんでしょ」
「……ええ、まあ」
「傷、ついてる」
レンズキャップ、と軽く示される。
「大事にしてる人の使い方だね」
沈黙。
ざらついた潮風が頬を撫でる。
直美が突然振り向く。
「カメラマンとして続けるってさ、才能いるよ」
その言葉に、思わず俺は驚いた。
直美の言葉の裏に何かしらの意味が込められているような気がしたからだ。
何気ないようでいて、わずかに冷めた空気があった。
夢を追い続けることがどれだけ厳しいか、感じていることがわかるのだろうか。
「そうなんですかねぇ」
心の中で、彼女とのことが思い出された。
カメラはまだ残っている。
けれど、一番近くにいた人はもういない。
「なんか、なくした?」
「……えっ?」
「迷子みたいな顔、してた」
直美がぽつり、とこぼした言葉に。
少しだけ間が空く。
喉の奥が張り付いている。
何を言えばいいのか、わからない。
波を蹴立てる、ザザァッという音だけがやけに大きく聞こえた。
「思い出ってさ…便利だよね」
直美の声は静かで、それでも心に鋭く刺さる。
「……便利?」
「うん。いくらでも、いい感じにできるから」
その言葉に、胸の奥が少し重くなる。
目の前にいる直美の横顔を見て、あの頃の自分を思い出す。
笑い声、光の角度、表情。
すべては鮮明なはずなのに、記憶は少しずつ色褪せ、形だけが残っている。
光を反射した水面が、やけに眩しい。
「ちゃんと覚えてるつもりでもさ」
直美は構わず続ける。
冷たい風が頬に当たり、少しだけ目が潤んだ。
「都合よく、整えちゃうんだよね。自分の中で」
ドクリ、鼓動が大きく聞こえた。
図星、なのかもしれない。
けれど、認めるには少しだけ痛い。
だから、俺は何も言えない。
視線が海に逃げる。
風が強くなって、船体がわずかに軋む。
「ねえ」
「……はい」
「その人といた時さ」
少しだけ間が空く。
波の音が、一瞬だけ遠くなる。
「……ちゃんと、見てた?」
船内に響くエンジン音が、胸の鼓動と重なる。
言葉を失った。
すぐに否定できなかったことに、自分で気づく。
見ていた、はずだ。
隣にいて、同じ景色を見て、同じ時間を過ごしていた。
それなのに。
思い出そうとすると。
輪郭だけが残ってしまう。
「……どうなんでしょうね」
ようやく出た言葉は、自分でも驚くくらい曖昧に掠れていた。
直美はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、微かに目を細めて、海を見ている。
その横顔が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
エンジンの振動が、わずかに強くなる。
船はいつの間にか、港を離れていた。
遠ざかる街並みを、なんとなく眺める。
ポートタワーも、観覧車も、徐々に小さくなっていく。
——あの時も、こうして見ていたはずなのに
あの頃の彼女との会話が頭をよぎる。
一緒にいた時間が、もっと大切に感じられる瞬間だった。
でもその時間が、“今の自分”とどう繋がっているのか、わからない。
「……一枚、撮ってみたら?」
直美がぽつりと言った言葉に、視線を上げた。
「今のままでもいいから」
「……今のまま、ですか」
「うん。上手く撮ろうとしなくていいからさ。いつもと違うものでもいいんだよ」
ただ、撮ってみたら。
やわらかなその声に、カメラへと視線を落とす。
相棒は、いつもと同じ重さでそこにある。
けれど、指だけが動かない。
撮っても、何も残らない気がしていた。
それでも。
震える指でキャップを外して、ファインダーを覗く。
立ち上がった先の、切り取られた景色の中。
海と空を繋ぐように、遠くなった街が静かに重なっている。
船のエンジンの低い振動が、背骨に伝わってくる感覚。
大きく息を吸って、ほんの少しだけ、呼吸を整える。
エンジン音と心音が、耳の奥で大きくなる。
指先に、わずかに力を込め。
パシャ
音は、小さかった。
けれど今度は、さっきよりもはっきりと耳に残った。
画面に表示された画像は、何の変哲もない青い空と異なる青さの海との境界線。
うまく撮れているかどうかは、よくわからない。
でも。
さっきまでよりは、ほんの少しだけ。
何かがしっくりきた気がした。
この一枚を撮るために費やした数分間の沈黙が、今の俺にはひどく長く重く、ほんのりとあたたかい。
その感覚をうまく言葉にできないまま、
俺はもう一度、空と海の方を見た。
「普段は何を撮ってた?」
「、ポートレートです」
喉の奥がひりついた。
人の顔を撮るのが仕事だ。
瞳の輝きを拾い、口角のわずかな動きにシャッターを合わせる。
脳裏に無数の顔がフラッシュバックする。
仕事で撮ってきたモデルたち。
そして、誰よりも多く撮った彼女。
けれど今、目の前の直美の顔を、俺は正しく捉えられていない。
プロの目線で、左側から差し込む光の角度や、風に踊る髪の曲線の美しさは理解できる。
なのに、その奥にあるはずの個としての直美に、ピントがどうしても合わない。
きっとファインダーの中では、まるで水に溶ける絵の具のように輪郭が滲んで見えるだろう。
かつての彼女に対しても、俺はそうだったのではないか。
カメラの性能に甘えて、本質を見たつもりになっていただけなのだろうか。
感情より先に“どう撮れば美しいか”を脳が計算してしまう。
だから笑った瞬間より、光の角度を先に見ていた、としたら…。
目の前の直美の顔が、一刹那だけ彼女と重なった気がした。
でも、その重なり方がどこか違う。
見えていたはずのものが、一番曖昧に。
そう思ってしまった。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




