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16/22

Ep.16 厳

ご訪問ありがとうございます

※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

「おまえ、……連れとるんやなぁ」


残すのではなく、連れて歩いているのだ。

本人は気づいていないのか。


「おまえ、逃げよっちゃろ?」


道紀の手が止まる。

なるほど。

無意識だろうが自覚はあるらしい。

少し遅れて、反復するように呟く言葉に。


「選ばんっちいうんは、楽っちゃろ」


カツリ。

走りを掴む箸が、皿とぶつかる。


「続けるか、捨てるか。どっちが正解で、どっちが不正解かなんて誰にも分からん」


選ばないことは空白ではない。

何も決めないことで、傷つくことから身を守っている。

内心で、苦い溜息を一つ吐いた。

かつて自分が、息子に対して突きつけた逃げ道も、結局は同じようなものだったのかもしれない。

漁師を継がせることは、この下関の海と運命を共にさせることだ。

だが、あの頃の海は変わり始めていた。

網を引かせる苦労ではなく、網を引けない無力さを教えたくなかった。

だから、「好きな道へ行け」と送り出した。

あれは親心だったのか。

それとも、自分が選んだこの道が“先細りである可能性”を直視したくないという、儂自身の逃げだったのか。

今では水揚げは減り、燃料は高騰している。

現状を見てすら、答えは分からない。


(どっちが正解かなんて、死ぬまで分からんわな)


息子を送り出したあの夜以来、正解を探し続けている。

だが、そんなものはどこにもない。

あるのは、網を投げたという事実とそこに入った魚の重さだけだ。

息子のいない船の上で、空っぽの網を海に投げ込むたびに、自分に言い聞かせてきた。

自分で選んだ道である、と。


「ただな。選ばんのも、選びよっちゃ」


冷たい言い方かもしれない。

だが、そうでも言わなければ、この若者は一生思い出の場所で、ただ記憶の波を聞いているだけになるかもしれない。

誰かが代わりに選んでくれるわけじゃないのだから。

けえこが食器を洗う規則的な音が、静かな居間に響いている。

その音を聞きながら、儂は猪口を手に取った。

道紀と目が合う。

瞳の奥で、何かが揺れた。

それが恐怖なのか、それとも反発なのかは分からない。

ただ、今まで澱んでいた水面に、ようやく風が吹いたような気がした。

ふと昔のことを思い出す。

息子がまだ小さかった頃、けえこはよく言っていた。


 「この子、海の匂いが好きなんやねぇ。厳さんに似たんよ」


潮風に髪を揺らしながら、笑っていた。

あの頃の海は、今よりもずっと穏やかで、未来のことなんて考えずに済んだ。

息子は、海が好きだった。

船の上で風の向きを読むのも、網の結び方を覚えるのも、誰より早かった。

儂が教えたわけじゃない。

気づけば、勝手に覚えていた。

海が変わり始めたのは、息子が高校に上がる頃。

潮の流れが読めなくなり、獲れるはずの魚が獲れなくなった。

燃料代は上がり、網を入れるたびに赤字が頭をよぎる。

そんな時期に、息子は儂の背中ばかり見ていた。

変わる海で舵を握る儂の姿を、怖いほど真剣な目で。


 「無理に継がんでええ。あんたはあんたの道を選びんさい」


息子に向けたその言葉は優しさだった。

だが同時に、儂の胸を締めつけた。

けえこは、儂の苦しさを見抜いていたのだ。

海が変わり、儂が迷い、家の空気まで変わってしまったことを。

息子は、けえこの言葉を聞いた夜、船の舳先に立っていた。

ただ、じっと。

暗い海を見つめて。


「……すみません」

「謝るな。まだ何も決めとらんっちゃろ」


小さく鼻を鳴らした。

道紀のように、正解を探して立ち止まっていれば、あの時何かを変えられただろうか。

再び、目の前の若者の顔を見た。


「なら、今はまだそれでええ」


相変わらず時化たツラをしているが、瞳の奥に、一度だけ強い光が宿ったのを見逃さなかった。


……ああ、こいつも結局、網を投げたいんやな──


ふと、自分の息子の顔が脳裏をよぎる。

あいつは外へ出た。

あいつが選んだ道だ。

儂はそれを支持した。

今でも、その選択は間違っていなかったと信じたい。

だが時折、船の舳先に立った息子が、海の色を眺めていた背中を思い出すたびに、胸の奥が軋む。

儂も、自分自身の選択に、今もこうして問いかけ続けている。

関門海峡の向こう、黒い海が広がっている。

明日もまた、網を入れなきゃならん。

それだけで十分だ。

それ以上を望むのは、欲張りというもんだ。


「厳さん、あんた余計なこと言いすぎじゃないん」

「うるさいわ」


けえこの小言から退散するために、席を立つ。

用を済ませて居間へ戻る際、襖越しに聞こえる道紀とけえこの、かすかな笑い声を耳にする。

けえこが場を和ませているのだろう。

フ、と息を吐いて、廊下の窓を開けた。

潮風が、湿った匂いと共に頬を打つ。

下関の夜は、いつだって獲るか獲られるか。

あるいは留まるか去るかという、白黒つかない問答を突きつけてくる。

関門の潮は、昼の顔と夜の顔がまるで別物だ。昼はせわしなく船を急かし、夜は全てを飲み込むように深い。

この深い闇の中に、何度自分の正解を沈めてきたのだろうか。

息子が出ていった後、家の中は急に広くなった。

けえこはいつも通りに家事をして、いつも通りに笑っていた。

夜になると息子の部屋の前で立ち止まる癖がついたことも、知っている。


 「……あの子、ほんまは残りたかったんかなぁ」


声は、海の底みたいに深かった。

儂は何も言えなかった。

息子に「継がんでええ」と言ったのは、儂だ。

海の未来が怖くて、息子に同じ苦しみを背負わせたくなくて。

言い訳して逃げたのは、儂のほうだったのか。

だからこそ、道紀の“選ばない”姿が、息子の影と重なる。

こいつもまた、海の前で立ち尽くしていた息子と同じ目をしていた。

けえこは、そんな道紀を見て、息子を見るような目をする。

あの優しさは、誰にでも向けられるものじゃない。

儂は潮風を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

夜の海は深い。

だが、その深さに沈むだけが人生じゃない。


「……選ばんのもしんどいっちゃけどな」


息子も、儂も、けえこも。

そして今は、道紀も。

誰もが、自分の海で揺れながら生きている。

かつて息子に、「継がなくていい」と言った夜のことを思い出す。

あの時、息子は泣かなかった。

ただ黙って船の舳先を見つめ、それから一言。


 「親父が選んだ人生を、俺が選ぶわけにはいかないから」


その言葉の残酷さを、今も抱えている。

自分の選んだ道が、息子にとっての選択肢を奪ってしまったのではないか。

そんな迷いは、どれだけ網を上げようとも消えることはない。

正解なんてない。

漁師を続けると決めた自分も。

漁師を継がせなかった自分も。

どちらも自身が選んだ結果に過ぎないのだ。

道紀には、逃げる後悔はしてほしくない。

カメラという“網”を手に、何が獲れるか分からぬまま海を彷徨う若者。

かつての自分を見ているようで、どこかこそばゆい。

こいつは、“残すため”に撮っているのではない。

“選んだこと”を、誰かに証明するために撮っているのだろう。

廊下に飾られた、家族写真に目をやる。

息子は今、どんな顔をして生きているだろうか。

ファインダーを覗く道紀の横顔は、船の上で潮目を読む息子の顔と似ている。

何を切り取ろうとしているのか。

こいつは過去を焼き付けているようで、その実、未来を切り開くための隙間を探しているんじゃないのか。


「……ま、時化たツラしてんのは、今夜までや」


選ばんままは、いつまでも続かんからな。

道紀も、儂も。

そう呟いて、居間の障子に手をかける。

道紀というこの若者が、自身の海から何を掬い上げるのか。

その“網”が重くなるのか、それとも空っぽのままなのか。

それはこの若者自身が決めることだが、せめて今夜くらいは、旨い酒で背中を押してやりたかった。


ご一読いただき、感謝いたします

引き続きお楽しみいただけましたら幸いです

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