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Ep.15 下関

ご訪問ありがとうございます

※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

道路に落ちる光はゆっくりと角度を変え。

さっきまで見えていた観光の賑わいを、少しずつ静けさの方へ引き戻していた。

人の声は残っているのに、どこか遠い。


「道紀くーん、お帰りー」


民宿の玄関を開ければ、けえこの声が柔らかく響いた。

その声に、少しだけ肩の力が抜ける。


「……ただいま、です」


居間に入ると、湯気の立つ湯呑みと急須が並んでいた。

けえこは俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。


「ちゃんと温まってきた?」


その問いは、優しさというより、確認に近かった。

逃げ場のない種類の優しさ。


「はい。空いてましたし、伸び伸びと」


けえこはにこにこと頷いて、湯呑みを俺の前に置いた。

白い水蒸気が、ゆっくりと立ち上る。

その温かさに、胸の奥の冷たい部分が少しだけ溶けていく。


「厳さん、今日は張り切っとるよ。名残と走りが揃うなんて、そうそうないけぇね」

「……楽しみにしてます」


湯呑みを両手で包む。

熱が、指先から腕へ、そして胸へと広がっていく。

胸の奥の温度がようやく落ち着き始めたころ、厳が運んできた皿が、ことりと置かれた。


「ほれ、まずは刺身っちゃ」


春の走り。

今日揚げたばかりだというそれは、透き通るような白身に春の光を宿している。


「このサワラ、刺身でいけるのは漁師の宿ならではやけぇね」


けえこが持ってきた鍋の火を調節しながら、誇らしげに笑う。

箸で取る前に、その二つを眺めた。

フグの“名残”と、“走り”のサワラ。

去りゆく季節と訪れる季節が、一つの卓の上で静かに共存している。

箸を伸ばし、サワラの刺身を口に運ぶ。

舌の上でとろけるような甘み。

それは広島で見たまだ咲かない庭の、固い蕾の中に秘められた生命力そのもののようだった。

続いて、フグの身を。

冬を惜しむように、ぷりっとした身が湯の中で踊る。

ピークを過ぎたからこその、落ち着いた旨味は柔らかくなった野菜までもを染め上げ。

噛み締めるたびに溢れる深いコクは、この地が積み重ねてきた時間の重みを感じさせた。

かつて隣で笑っていた彼女なら、この対比をどう表現しただろう。


 ──寂しいけど、楽しみだね


そんな風に、矛盾する感情をそのまま受け入れて笑っただろうか。

スマホに手を伸ばしかけて、止めた。

今は、この味を、この揺れを、ただ自分の中だけに留めておきたかった。

残すことの答えはまだ出ない。

けれど、この名残の熱が身体を温めていく感覚だけは、紛れもない現実だ。


「そのサワラにはこれが合うっちゃ。酒に付き合え」


厳はいつの間にか二つの猪口を持って座っていた。

徳利を傾け、俺の返事も待たずに猪口を満たしはじめ。

トトト、と透明な液体が注がれる。


「一人で静かに呑むには、下関の夜は少し長すぎるけぇな。ほれ、持て」


キッチンから、けえこの声が飛ぶ。


「厳さん、あんまり飲ませんでよ?」

「分かっとるっちゃ」


軽いやり取り。

いつもの空気。

何も変わっていないはずなのに、ひとつだけ、抜け落ちている。


「…いただきます」


一口含むと喉を滑り落ち、道筋を追うように。

腹の奥でぽっと花が咲くように熱が広がる。


「相変わらず、ええ飲みっぷりじゃのう」

「厳さんが良いお酒を選んでくれてるからですよ」


そう笑えば、厳は「そうか」と短く応え、自分の猪口を空にしてから、また静かに瓶を傾けた。

徳利が空になり、二本目を開ける。

会話の合間を縫うように、潮騒の音が時折窓を叩く。

腹の奥に溜まっていた冷えは、とっくに酒の熱で溶け出し。

それに伴うように、胸の奥底に沈めていた澱のような感情が、言葉となって喉の先までせり上がってくる。


「……厳さん」


猪口を置く。

その動作が、自分でも驚くほど重たかった。


「……残すって、なんなんでしょうね」


外の暗闇と、室内の光のコントラストに、自分の輪郭が曖昧に溶けていく。


「撮っても、……そこにあった瞬間は、全部過ぎ去っていくだけで」


厳は何も言わない。

ただ、俺の猪口が空になるのを待って、またなみなみと注ぐだけだ。

その手つきに、急かされることも、否定されることもない。

ただ、受け止められている。

その事実だけで、堰を切ったように言葉が零れる。


「陽なら、きっと笑って撮っただろうな、ってことばかり、考えてしまうんです。自分が撮りたいものじゃなくて……陽が喜びそうなものばかりを、探してる」


酒の味がした。

どこか、しょっぱいような。


「それが、“残す”ことなのか……それともただ、陽の影を追いかけているだけなのか、分からなくなって」


語り終えてから、自分がこんなに息を切らしていたことに気づく。

沈黙が落ちた。

遠くで、汽笛が聞こえる。

それはどこか寂しく、けれど優しく夜の海を切り裂いていった。

厳はしばらく黙って猪口を転がしていたが、やがて視線を上げ、深く刻まれた皺をさらに深くして笑った。


「お前、……連れとるんやなぁ」


それだけ言って、厳は酒を啜った。

テレビの音だけが、やけに大きい。

ニュースではなく、どうでもいいバラエティ。

笑い声だけが空間に浮いては消えていく。

その中で、厳だけが動かない。


「なあ」


不意に、声が落ちる。

低く、波の底みたいな声だった。


「お前、逃げよっちゃろ?」


手が止まる。

意味は、聞き返す必要がなかった。


「……逃げ、ですか」


少し遅れて、そう返す。

厳は笑わない。


「選ばんっちいうんは、楽っちゃろ」


箸が皿を叩く音。


「続けるか、捨てるか。どっちが正解で、どっちが不正解かなんて誰にも分からん」


視線は、こちらに向かないまま。


「やがな」


声だけが、ハッキリと食い込んでくる。


「“選ばん”いうのは、結局どっちにも責任持たんっちことっちゃろ」


喉が、わずかに鳴った。

否定したいわけじゃない。

でも、肯定する言葉も、俺は持っていない。


「漁はな、海が決めるんじゃねえ。獲りに行く奴が決める」


ゴトリ。

皿を置く音が、やけに重い。


「獲れんかった時、“海が悪い”言う奴もおる。やがな」


ようやく視線が、かち合う。


「最後に網入れたんは誰や?」


沈黙。

その言葉だけが、空間に残る。

どこかで、何かが引っかかった音がした気がした。

カメラではない。

写真でもない。

もっと曖昧で、ずっと抱えていたはずのもの。


「……俺は」


言いかけて、止まる。

言葉が、形になる前に崩れる。

厳は肩をすくめた。


「別に説教しとるわけじゃねえ」


そう言いながらも、鋭い目が逸らされることはない。


「ただな。選ばんのも、選びよっちゃ」


その一言が、やけに静かだった。

選ばないことは、空白じゃない。

そこに、何かが確かに積もっている。

キッチンから、けえこが皿を洗う音がした。

水の音が規則的に響く。

その音に紛れるように、厳がぽつりと付け足す。


「漁師はな、昔から“残るか、出るか”で揉めちょった」


言葉は淡々としている。

それでも、強く感じるのは。


「残る奴も、出る奴も、間違いじゃなか」


猪口が再び持ち上がる。


「せやけど、“考えちょるだけ”の奴は、いつの間にか誰からも名前呼ばれんようなる」


その瞬間だけ、空気が少し冷える。

名前が呼ばれない。

それは、消えることよりも静かな終わり方なのだろう。

テレビの笑い声が遠い。

今いるこの部屋だけ、少しだけ海に近い気がした。


「……すみません」


気づけば、そう口にしていた。

謝罪ではない。

でも、それ以外の言葉も出てこなかった。

厳は小さく鼻で笑う。


「謝るな。まだ何も決めとらんっちゃろ」


そして、視線を外す。


「なら、今はまだそれでええ」


静かに、それだけ言った。

その“ええ”は、許しでも肯定でもない。

ただ、判断を保留にする場所のような響きだった。

けえこが笑いながら湯呑みを二つ置きに来る。


「厳さん、あんた余計なこと言いすぎじゃないん」

「うるさいわ」


短いやり取り。

それだけで、空気が少しだけ戻った。


ご一読いただき、感謝いたします

引き続きお楽しみいただけましたら幸いです

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