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Ep.14 下関

ご訪問ありがとうございます

※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

一瞬止まった呼吸を、意識して整える。


「……まあ、色々あって。今回もお世話になります、けえこさん」


不意に耳にしてしまった彼女の名前に、心臓がズクリと痛みを訴えた。

それを感じぬふりをして、笑みを貼りつける。

けえこは一瞬だけ間を置いてから、ふっと笑った。


「そっか。まあ、立ち話もなんやし、上がりんさい上がりんさい」


前と同じ、左奥の部屋よ、と。

背を向けるその声は、以前と変わらない。

暖簾をくぐると、木の匂いがふわりと鼻をくすぐった。

変わらない。けれど、同じではない。

その微妙な差分が、胸の奥で静かに波紋を広げる。

靴を脱いで上がる。

足裏に伝わる木の感触が、妙に生々しい。

前に来たときは──、二人だった。

廊下の奥から、かすかにテレビの音が流れてくる。


「おう、来たんか」


居間を横切る際に、低い声が飛んできた。

けえこの夫である彼は漁師だ。

今日はもう、仕事を終えたのだろう。


「お久しぶりです、(いわお)さん。お世話になります」

「おう、ゆっくりしてけや」


手招きに誘われて、居間に足を踏み入れる。

厳の視線は少し外れていて、なんだろうと首を傾げていれば。


「…(ひかり)ちゃんは?一緒じゃねえんか?」

「…、今回は俺だけなんですよ……そういえば、今日はどうでしたか?晩御飯は期待しても?」


その問いに、厳は手に持っていた湯呑みを置き、日焼けした顔に深い皺を刻んで笑った。


「ああ。今日は運が良かった。ちょうど『名残』と『走り』が、どっちもええ顔して網にかかりやがった」

「ナゴリと、ハシリ…ですか?」

「名残フグよ。もう時期も終わりだが、最後に脂を蓄えたやつがいてな。そいつを鍋にする。それと走りはな、」


厳は一度言葉を切り、俺の目を見るでもなく。

窓の外、少し離れた深く輝く海に視線を投げた。


「サワラや。こいつは春を連れてくる魚。本当なら焼き物にするんだが、今日獲れたのは跳ね方が違った。薄く引いて刺身で出す……季節の変わり目ってのは、どっちつかずで寂しいもんだが、食い物だけは贅沢なもんさ」

「それは……贅沢、ですね」

「おう。冬を仕舞って、春を迎えにゃならんからな。一人で食うには少し量が多いかもしれんが、今のうちに腹に詰め込んでおけ」


厳は立ち上がり、台所の方へ歩き出す。


「飯はまだじゃが、茶くらい飲めるけぇな」

「、はい。先に荷物置いてきますね」


割り当てられた部屋は、畳の匂いと、微かに香る潮の気配に満ちていた。

荷物を下ろし、窓を開ける。

関門海峡を往来する船が、青い海面をゆっくりと滑っていた。

カメラバッグをそっと置く。

肩が軽くなる。その軽さが、どこか心許ない。

部屋の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。


  ひかりちゃんはどうしたんね?──


その問いが、遅れて胸の奥に沈んでいく。

答えられない。答えがない。

ただ、残っているものだけがある。

指先が、藍のストラップに触れた。

その感触が、今日の揺れと、昨日の記憶とをひとつに結びつける。


「……何のために、残したんだろうな」


小さく零れた呟きが、部屋の空気に溶けていく。

もう、共有できるわけでもないのに。

スマホで写した、咲いてない庭。

外から、風の音。

遠くで車の走る音。

生活の気配。

その全部が、今の自分を包み込んでくる。

遠くで汽笛が鳴った。

低く、長く、胸の奥に沈んでいくような音。


「……変わらないな」


思わず漏れた声は、部屋の静けさに吸い込まれた。

変わらない景色。変わらない宿。変わらない人たち。

変わらないものの中で、変わってしまったのは自分のほうだ。

落とした視線の先で、藍のストラップが光を吸い込んで深く沈んだ色をしていた。


  陽ちゃんは? 一緒じゃねえんか?──


厳の声が、遅れて胸の奥に落ちてくる。

言葉にしたくないものほど、音だけが鮮明に残る。


「……仕方ないだろ」


誰に向けたわけでもない呟き。

けれど、言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

少しだけ息を吸い、吐く。

そして、襖に手をかけた。

お茶の匂いが、廊下の向こうからふわりと漂ってくる。

焙じ茶の、少しだけ香ばしい匂い。


「おう、座れ」


厳はちゃぶ台の向こうで湯呑みを二つ置き、もう一つの座椅子を足で軽く押し出した。

その仕草が妙に自然で、こちらの胸の奥が少しだけ緩む。


「ありがとうございます」


腰を下ろすと、湯呑みの縁から立ちのぼる湯気が、視界をふわりと揺らした。

手に取ると、熱がじんわりと掌に広がる。


「けえこが買うてきた。ほれ、食え」


指で示した皿には、二種類のコロンとした小さな和菓子が並んでいた。

黒糖の香りがする、しっとりとした饅頭。

そして、薄い餅皮に包まれた苺大福。


「……晩御飯と同じですね」

「おう。季節の境目は、腹が忙しいなぁ」


厳はそう笑って、湯呑みを口に運んだ。

その横顔は海を見ていたときと同じ、深い皺の奥に静かな光を宿している。

苺大福をひと口かじる。

甘さより先に、苺の酸味が舌に触れた。

春の匂いが、胸の奥にすっと入り込んでくる。


「……うまいですね」

「そりゃあ、旬じゃけぇな」


厳は湯呑みを置き、ふっと息をついた。

そのまま、少しだけ視線を外す。


「陽ちゃん、よう笑う子じゃったな」


湯気が揺れた。

胸の奥が、きゅっと縮む。

外では、海峡を渡る風が、どこか遠くで窓を鳴らした。

季節の境目の音。

その音に、ふと、陽の笑い声が重なった気がした。

一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。

湯呑みの縁に触れた指が、わずかに震えた。


「……はい」


それ以上、言葉が続かなかった。

厳は追及しない。

ただ、ちゃぶ台を指で軽く叩きながら、ぽつりと呟いた。


「無理に話さんでええ。話したくなったら聞いちゃる」


その言い方が、妙に優しくて。

優しさが、逆に胸に刺さる。


「……すみません」

「謝ることじゃねえ。海は変わらんが、人は変わる。そういうもんじゃ」


厳は立ち上がり、台所の方へ声を張った。


「けえこ、風呂屋は開いとるか」

「…もうちょっとで開くよー」


返ってきた声は、相変わらず明るい。

厳は俺の方へ向き直り、顎で廊下を示した。


「お前、顔が疲れとる。旅の疲れは湯で落とすんが一番じゃ」

「……ありがとうございます」


湯呑みの熱が、指先からゆっくりと引いていく。

その温度の変化が、今の自分の心の揺れとどこか似ていた。

厳が湯呑みを片付けながら、ぽつりと付け足した。


「腹はあとでええ。今日はええもんが揃っとるけぇな」


その言葉に、少しだけ笑みが漏れた。

ほんの少しだけ、胸の奥の重さが軽くなる。


「道紀くん、銭湯の券、そこ置いとるよー。今日は空いとるはずやけぇ」


顎で示された先。

廊下の台の端に、見覚えのある薄い木の入浴券が数枚。

一枚は──前に来たとき、陽が受け取ったものと同じ色のリボンがついていた。


「ほれ。持ってけ」

「……はい」


手に取ると、角が取れて滑らかになった木の質感が指先に残った。

その感触が、妙に胸の奥をざわつかせる。

厳は台所へ向かうのか、背中越しに言った。


「歩いて三分じゃ。外、まだ冷えとるけぇ、上着着ていけよ」

「わかりました」


立ち上がると、畳の軋む音が小さく響いた。

部屋に戻り、上着を羽織る。

袖を通すときに、心の埃がふわりと浮くような気がした。

カメラバッグに手を伸ばしかけて、やめた。

銭湯に持っていくものじゃない。

それに──今は、重さを手放したかった。

玄関に向かうと、けえこが顔を出した。


「気をつけて行きんさいね。帰りは暗うなるけぇ」

「はい。すぐ戻ります」

「ゆっくりでええよ。湯に浸かったら、少しは楽になるけぇね」


その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。

“楽になる”という響きが、今の自分には少しだけ遠い。

外に出ると、夕方の空気が頬に触れた。

昼の名残をわずかに残しながら、夜の気配がじわりと滲んでくる。

潮の匂いは日中より薄い。

代わりに、どこか懐かしい生活の匂いが漂っていた。

入浴券をポケットに入れ、ゆっくりと歩き出す。

道の先に、銭湯の煙突が見えた。

白い湯気が、空に溶けるように揺れている。

歩くたびに、身体の奥に残っていた揺れが、少しずつ薄れていく。

列車の揺れでも、心の揺れでもない。

ただ、歩くという行為が、今の自分を現実へ引き戻していく。

銭湯の暖簾が風に揺れた。

その青が、藍のストラップと同じ色をしているように見えた。


「……行くか」


小さく呟いて、暖簾をくぐった。


ご一読いただき、感謝いたします

引き続きお楽しみいただけましたら幸いです

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