Ep.13 下関
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ガタン、と車輪が継ぎ目を踏む。
その振動が座席越しに背中へと伝わってきた。
一定のリズム。単調なはずの揺れが、思考の奥を刺激するかのようだ。
広島を出て、どれくらい経っただろうか。
トンネルに入るたび、車内の照明が窓に俺の顔を映し出す。
けれど、トンネルを抜けた時に垣間見える瀬戸内の海は、驚くほど明るい。
その明暗の繰り返しが、まるでシャッターを切り続けているようだった。
そんな窓の外に視線をやるのをやめて、ただ揺れに身を任せる。
頭の奥から時折、音が蘇る。
やってるやつは、やめてないだけなんスよ──
何度も浮かんでは消えるそれ。
シャッターの感触も、まだ指先に残っている気がした。
小さく息を吐く。
視界の端で、光が揺れる。
「……そういえば」
ぽつり、思い出す。
昨日、ちゃんと見てきた場所のことを。
スマホを取り出して、写真フォルダを開く。
カメラじゃなくて、ただの記録。
そこに写っているのは整えられた緑。
左右対称に区切られている。
低く刈り揃えられた生垣。
まっすぐに伸びる石畳の通路。
整いすぎていて、どこか現実感が薄い。
よく見れば、花はまだ揃っていなかった。
ほぼ緑で、土が見えている場所もある。
植えられているのに、咲いていない。
まだ冷えた春を耐え忍ぶ固い蕾。
「……まだ早い、か」
指で画面をなぞる。
完成された庭じゃない。
これから色が重なっていく場所。
児島で見た藍の糸が、頭をよぎった。
層を重ねるたびに、深くなる色。
でも芯は染まらない。
その光景を前に、考えるより先に、隣を見てしまったことまで思い出してしまう。
画面の中の、まだ眠っているように見える土色。
彼女ならきっと、咲いている花よりこれから咲こうとしている芽を見つけて、楽しそうに笑っただろうか。
そんな想像をしても、もうその答えを確認する術はないというのに。
ガタンッ、という音とともに大きく身体がブレる。
置いてきたはずのものが、遅れて揺り返してくるみたいに。
揺れているのは車両のはずなのに、どこか自分の内側の方が大きく軋んでいる気がした。
音も、光も、言葉も。
指先に残るシャッターの感触を、無意識に擦る。
──残すって、なんだろうな
問いは、明確な答えを持たないまま沈んでいる。
これは“済ませた”のか。
それとも、“残した”のか。
もう隣には、いないのに。
「誰のために…」
ふいに、光が視界の隅で主張した。
車窓いっぱいに広がる、陽光を跳ね返す海。
海面に砕ける陽光は、ずっと柔らかく、暖かい。
島々が引っかかる海とはまた違う、島影はあるが開けている海。
メトロノームのようなリズムに、カメラバッグのストラップがかすかに揺れた。
藍は、まだそこにある。
その表面を、親指の腹でなぞった。
外の音が、一段遠くなる。
完全に消えない。
だからきっと、今はこれでいい。
ゆっくり息を吐いた。
相棒の液晶を見る。
神戸の海と空。
点在する島。
ドームの静けさ。
そして、一振り。
どれも、同じじゃない。
でも、どこかで繋がっている。
それだけで、十分だと思えた。
だから、次も。
撮れるような気がする。
「次は岩国です。山陽線、岩徳線、錦川清流線はお乗り換えです」
アナウンスに、ドアの近くへ。
ホームに降りて、目の前の列車に移動する。
一分しかない乗り換えにはハラハラしたが、対面ホームなので起きていれば問題はない。
再び揺れに身を任せる。
由宇を過ぎ、線路が波打ち際に吸い込まれていく。
遮るもののない、どこまでも突き抜けるような青。
徳山の煙突群を過ぎたあたりから、景色は表情を失い始めた。
代わり映えのしない住宅地。
それを合図に、俺はカメラバッグを引き寄せ、少しだけ目を閉じた。
揺れが、外のものなのか内のものなのか、判別がつかなくなっていく。
抗えなくなり、意識は溶けて消えた。
どれほどそうしていたのか。
揺れが、ゆっくりと間延びしていくのを感じた。
いつもの減速のはずなのに、どこか終わり方が違う。
その瞬間、音が一段抜けた。
遅れて、現実が戻ってくる。
くぐもった声が、どこか遠くで反響する。
内容までは拾えない。
ただ、音だけが耳に触れる。
「終点、下関です」
急に言葉の輪郭が結ばれ。
ハッ、意識が一気に浮上した。
列車を降りると、空気が少しだけ湿っているのが分かった。
潮の匂いというほど強くはないが、どこか海が近い気配がする。
下関駅のコンコースは、思っていたより静かだった。
人の流れはあるのに、どこか目的地の重さがない。
床に落ちる足音だけが、やけに明瞭に響く。
眠気覚ましに自販機で買った温かいコーヒー。
触れる指先が、まだシャッターの感触を覚えている気がする。
カメラバッグの重さを肩で確かめながら、視線だけを巡らせ。
壁の時計に目をやる。
気づけば、朝から何もまともに食べていない。
寝起きでもあるので空腹というほどではないが、夕方までは持たないだろうという感覚だけが、曖昧に腹の奥に残っている。
「……まあ、食うか」
駅前のざわめきを背に、駅直結ビルへと続く道をゆっくり歩く。
エレベーターで上へ上がり、フロアマップを眺めた。
どこでもいいはずなのに、どこがいいのか分からない。
選択肢が多いわけじゃないのに、決める理由がない。
「……軽くでいいんだよなぁ」
目に留まった店に見覚えがあった。
エレベーターから正面、数歩進んだ右手にある。
「縁起がいい名前だねぇ」
こんな暖簾だっただろうか、と首を傾げる。
それでも、開いているという事実だけで十分だ。
店内に踏み入れば、いい匂いにふわりと包まれた。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
「いらっしゃいませーこちらへどうぞー」
昼を少し過ぎた時間帯。
少し高めの天井。
一人客でも入りやすいけれど、家族連れや老夫婦の静かな話し声。
店内は満席ではないが、席はほどよく埋まっていた。
一人だと告げ、案内された席。
偶然かあるいは記憶が呼び寄せてしまったのか、前と同じ席。
大きく息を吸って、ゆっくりと座る。
メニューは見ない。というより、見る必要がない。
「瓦そばで…、お願いします…」
自分に確認するように呟いて、そのまま注文する。
手持ち無沙汰に、水の入ったコップへ触れる。
ガラス越しに、光が歪んでいた。
じゅう、と音が近づいてくる。
「お待たせしましたー瓦そばです。ごゆっくりどうぞー」
数分もしないうちに、湯気の立つ器が目の前に置かれる。
熱せられた瓦の上で、緑色の茶そばがかすかに鳴いている。
錦糸卵のやわらかな黄色。盛りだくさんの白い葱。茶色い牛肉。深い緑の海苔。輪切りのレモン。
端の方では、そばがわずかに焼けて色を変えている。
どこか整いすぎていて、それでいて野趣がある。
熱が入ることで、少しずつ形が崩れていく。
箸を入れると、下のほうの麺は軽く焼けて香ばしく、上はしっとりとしたまま。
その対比が妙に楽しい。
最初はそのまま口に運ぶ。
温かい。少しの苦みと、油の香り。
つゆにくぐらせると、甘みと酸味がほどよく重なり、旅先でしか出会えない味が舌に広がった。
同じもののはずなのに、食べ方ひとつで印象が変わる。
指先が、わずかに動く。
シャッターを切るときの癖。
曖昧さの中で、瓦そばの温もりだけが確かな現実だった。
もう一口。噛んで、飲み込む。
湯気の向こうは、自分のもののようで、どこか他人事のような。
そんな時間が緩やかに流れているだろう。
気づけば、皿はほとんど空になっていた。
レモンの輪がひとつ、ぽつんと残っている。
それをつまみ上げて口に運ぶと、きゅっとした酸味が、旅の続きを静かに促してくる。
「ありがとうございましたー」
さっきまでの熱がふっとほどけた。
店内に満ちていた音と匂いが、向こう側へ置いていかれる。
外の空気は軽く、けれどまだ完全に冷えているわけでもない。
どこか中途半端で、だからこそ今の自分にはちょうどよかった。
口の中には、まだレモンの酸味がわずかに残っている。
駅前のざわめきに混ざりながら、ゆっくりと歩き出す。
観光客らしい声。地元の人の足取り。
そのどちらにも、少しずつ距離がある。
ポケットの中で、スマホがかすかに触れた。
まだ咲いていない庭。
重なっていくはずの色。
視線を上げると、空は思ったよりも広かった。
海の気配はあるのに、さっき車窓から見たそれとは違う。
近いのに、どこか遠い。
下ろした視線の先に派手さはないが、生活の匂いがある。
ふと足が止まる。
錆びたトタン壁に、干されたばかりの青いタオル。
なんでもない光景だ。
スマホを向ける。
露出を合わせ、ピントを芯へ置く。
乾いたシャッター音が、下関の空に小さく響く。
世界が四角く切り取られた。
スマホを持ったまま、更に足を動かす。
歩きながら、過去の記憶をもう一度なぞる。
今日泊まる宿まではあと数分で辿り着けそうな距離。
揺れは、もうないはずなのに。
身体の奥には、まだかすかに残っているようだ。
「いらっしゃ──あら」
門をくぐったところで、暖簾の向こうから顔を出した女性が目を丸くする。
「道紀くん、久しぶりやねぇ」
柔らかな声。
記憶の中と変わらない笑い方。
「陽ちゃんはどうしたんね?今日は一人で来たん?」
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




