Ep.11 広島
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
フレームの中に、崩れた骨組みと空が入る。
完璧な構図じゃない。
でもそれでいい、と言い聞かせ。
冷えた指が、シャッターを切る。
パシャ
軽い音。
なのに、少し重く残る気がする。
液晶は確認しない。
見た瞬間に、“手触り”が薄まる気がしたから。
風が一度、強く吹いた。
原爆ドームの輪郭は、その中でも動かないままそこにある。
あたった風が鳴く音が、唸り声のようにも聞こえる。
「……撮ったな」
誰に言うでもなく、呟く。
肯定でも、否定でもない。
それなのに、冷えた指先だけが妙に落ち着かない。
シャッターを切ったはずなのに、まだ“切っていない感覚”が残っている。
観光客の列が横を通り過ぎる。
誰かが同じ場所を、別の角度から何度も撮っている。
画面を覗き込み、少しズレて、また撮り直す。
その動作を見ていると、ふと気づく。
自分も同じことをしていたのではないか、と。
「残すって、こういうこと……なのか?」
言葉は風に溶ける。
答えは返ってこない。
けれど、さっきの一枚だけが、胸の奥に残っていた。
整っていないはずの構図なのに。
むしろ整っていないからこそ、消えない感じがある。
ドームの向こうで、空が少しだけ傾く。
時間が進んでいるのか、それとも置いていかれているのか分からない。
ただ一つ分かるのは、さっきのシャッター音が、まだ耳の奥に残っていることだけだった。
風が抜ける。
視線を外し、そのまま歩き出した。
原爆ドームを背に、ゆっくりと橋を渡る。
足音がコツ、と乾いた音を立てるたび、さっきのシャッターの感触が、わずかに遅れて指先に戻ってくる気がした。
川の水面は、思っていたよりも静かだ。
光を散らしながら、どこか落ち着いている。
対岸へ渡ると、空気が少しだけ変わる。
広島平和記念公園。
木々の間を抜ける風。遠くで聞こえる話し声。小砂利を踏む音。
どれも特別じゃないのに、ひとつひとつが妙に輪郭を持っている。
視界の先に、人がいる。
手を合わせる人。立ち止まって説明を読む人。何気ない会話を交わしながら歩く人。
どこを切り取っても、画になる気がした。
──撮れる
その感覚だけが、先に立つ。
無意識に、相棒へ手が伸びる。
指がグリップに触れ、重さを確かめる。
そのまま、ほんの少しだけ持ち上げて。
止まった。
フレームを覗く前に、分かってしまう。
これは、撮れる。
でも、撮っていいのかは、分からない。
小さく息をこぼして。
ゆっくりと、カメラを下ろす。
理由は、うまく言葉にできなかった。
不謹慎とか、配慮とか。
そういう単語に置き換えると、どこかズレる。
なにか、違う気がした。
切り取った瞬間に、何かが欠けるような。
あるいは、整いすぎてしまうような。
風が鳴く音だけが、やけに大きく聞こえる。
視線の端で、小さな子供が笑っていた。
それを見守る親の手。
少し離れた場所で、静かに目を閉じる人。
どれも、ほんの一瞬で過ぎていく。
本来なら、逃したくない瞬間。
それでも、手は動かなかった。
ポケットの中のスマホにも触れない。
ただ、目で追う。流れていく時間を、そのまま。
──残すって、なんだろう
さっきの問いが、また浮かぶ。
写真は残る。形として、あとに残る。
でも、今ここにあるものは。
この空気は、この温度は、この間合いは。
切り取った瞬間に、同じものではなくなる気がした。
一瞬を切ることは、何かを殺すことなのか?
残すとは、固定することなのか。
それとも変化させることなのか。
川の方から、風が吹く。
木の葉が揺れ、影がわずかに形を変える。
変わっていくものと、残っているもの。
その両方が、同時にここにある。
児島で聞いた言葉が、耳の奥から蘇る。
芯は染まらない──
どれだけ重ねても、変わらない部分がある。
逆に言えば。変わっていくのは、その周りだけ、ということか。
意識的に、息を吐く。
カメラに触れたまま。
「……まだ、」
誰に向けたわけでもない声が、静かに落ちた。
撮らなかったことに、後悔はなかった。
でも、満足でもない。
そのどちらでもない場所に、自分が立っている。
それだけが、はっきりしていた。
少しだけ、歩幅を緩める。
何かを探すでもなく、何かを避けるでもなく。
ただ、流れの中に身を置くように。
足元の小砂利が、また小さく鳴る。
その音だけが、今の自分の位置を教えてくれている気がした。
適当な場所に腰掛け、ぼんやりと景色を見ていた。
見ていたのは、景色ではなかったかもしれないけれど。
気づけば、一時間以上が経過していた。
さて、次は何処に行こうかとマップアプリを開いて首を傾げる。
原爆ドームの北側に、HIROSHIMA GATE PARKの文字。
以前、来た時はこんな名称ではなかったと検索をかけてみる。
どうやら、二〇二三年に新しく生まれ変わったらしい。
庭園の記載もある。
花は、彼女の好きなものだ。
行ってみるか、と来た道を戻る。
祈っている人の背中。
何も知らずに笑っている子供。
通り過ぎながら、ただ眺める。
橋の欄干に触れた指先に、わずかに残る鉄の冷たさ。
足元のアスファルトは、春のあたたかな熱を抱いたまま、靴底越しにじんわりと返ってくる気がする。
遠くで鳴る信号音が、川の揺れに溶けていく。
風に混じった草の匂いが、ふいに俺を追い抜いていった。
まっすぐ歩いてきたそこは、高見ひろばというらしい。
段の中央には水場があり、夏には子供たちの遊び場になるのかもしれない。
見下ろしたそこには、欠けた骨組みの影が水面に歪んで落ちている。
確か、広場の奥が庭園だったはず。
観光客の喧騒から少し離れた、開けた場所。
規則正しく、空気を切り裂く乾いた音が聞こえる。一定のリズム。
お好み焼き屋で見せた柔和な笑顔とは違う、獲物を狙うような鋭い眼差し。
結城が、目に見えない球を相手にバットを振っていた。
彼女が残ったと言った場所で。
結城はやめないために、自分の夢を追いかけているのか。
ゆっくりと近づく。声はかけない。
ただ、相棒を構える。
踏み込み。体のねじれ。
一瞬、光が乗る。
まるで、打球音が聞こえてきそうなほど真剣な。
シャッターを切る。
彼がこちらを見る。
目が合った気がした。
何も言わない。
彼はすぐに視線を戻して、またバットを振る。
少し迷った。
けれど、熱に惹かれて、もう一枚。
さらにもう一枚。
上手く撮れているかなんて、考えていない。
ただ、そこにある情熱を、そのまま残す。
指先に伝わるマグネシウムの微かな振動。
彼の姿を見て、思うところが出てきた。
──俺はまだ、やれたのではないか?
気づけば、指がシャッターから離れていた。
遅れて、現実が追いついてくる。
ファインダー越しではなく、視線が合う。
一瞬だけ、息が詰まった。
「勝手に撮ってすみません。今、消します」
慌てて頭を下げた。
消さなければ、と焦る思考に快活な声が飛び込んでくる。
「え、なんでっすか。消すのもったいないっす」
心底分からない、とでもいうように。
彼はキョトンとした表情で首を傾げる。
「それ、今しか撮れないやつっす。入団前の俺の練習風景なんて、数年後にはプレミアもんっすよ」
悪戯っ子のように、カラリと笑い。
バットを肩に担ぎ直しながら、こちらを見た。
息は上がっているのに、妙に落ち着いた目だ。
「でも、今すぐは渡せないんだ。カードリーダーを持って来てないし、コイツ、Bluetoothなんて気の利いたものも付いてないから…」
咄嗟に口をついて出たのは、あまりにも現実的で、夢のない言い訳だ。
そんな自分が少し可笑しくて、自嘲気味に笑ってしまう。
「なら……俺がプロになったら、球団の事務所宛に送ってください」
下ろしたバットの先が、地面を軽く叩く。
「今は、いいっすわ。まだ、“ただの一般人”なんで」
手元の相棒に視線を落とす。
液晶には先ほど切り取った“未完成のプレミア”が映っていた。
まだ、ピントも構図も、自分の中では正解じゃない。
けれど。
「分かった…応援してる……ありがとう」
「あざっす」
この写真を届ける場所が、俺にはできてしまった。
それじゃ失礼します、と立ち去る背を見送って。
削除ボタンの上にいる指を見る。
一度大きく深呼吸して、指をズラし、別のボタンを押し込む。
画面の端に、小さな鍵のマークが表示された。
これで、この写真は簡単には消せない。
送り先は、広島東洋カープの球団事務所。
彼が、重い扉をこじ開けた時にしか届かない、宛先のない約束。
「……頑張れ」
誰にも聞こえない声で呟き、カメラをバッグに仕舞い込む。
揺れる藍のキーホルダーが、バッグの縁で小さく跳ねた。
身体の奥に、まだ熱が残っている。
それは広島の陽射しのせいでも、お好み焼きの熱気のせいでもない。
──俺は、まだ、やめていないのかもしれない
その一歩を踏み出す足取りは、昨日までとは明らかに違っていた。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




