Ep.10 広島
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
「はい結城くん、いつものお待たせ」
「あざっす」
小さな小鉢が隣の青年──結城の前に差し出される。
茶色い何かが入ったそれを、彼は笑顔で受け取った。
「……それ、なんですか?」
自分の口から出た言葉の軽さに驚く。
彼は小鉢の中の茶色い塊を一つ、口に放り込んだ。
「牛スジっす。ここの煮込み、めっちゃうまいんで」
彼は当然のように言い切った。
メニューの隅にある、ともすれば見落としてしまいそうな一皿。
それを迷いなく旨いと言いきるその横顔には、自分を信じ切っているような、眩しいほどの迷いのなさが宿っていた。
彼の迷いのなさを見て、自分の迷いが昨日の藍の糸の色のように重なって残っていることを強く感じる。
「いつも良い食べっぷりなのよ!カープ目指すからには身体作りも大切だものねー」
「へぇ、プロ目指してるんだ?」
「……目指してた、って言ったほうがいいかもしれないですけど」
返ってきた声は、思ったより淡々としていた。
けれど、ほんの少しだけ表情が揺れる。
「高校の時は、ダメだったんで」
鉄板にヘラが当たる音。
「でも、やめないんだ」
「まあ」
少し踏み込みすぎたか、と思った。
軽く息を吐き謝ろうと口を開く前に。
結城が、少しだけ笑う。
「やめる理由も、別にないんで」
その言い方が、やけに引っかかった。
綺麗でも、強くもない。
ただ、そこにある感じ。
「……怖くないの?」
「怖いっスよ」
ポツリと漏れた言葉に、彼は即答した。
「だから、やってるんだと思います」
「……無理かもしれなくても?」
気づけば、そう聞いていた。
その短い沈黙の間、彼の顔を見ていると、諦めきれなかった時間と、それでも前に進もうとしている意志が伝わってくる。
踏み込むのは少し怖いけど、この強さは見逃したくない瞬間なのかもしれない。
「無理かもしれないけど、やるんスよ」
一瞬、言葉が出なかった。
迷いがない、というより。
迷ったまま、置いてきてない意思だった。
鉄板の上で、ヘラが動く。
押さえて、返して、また押さえる。
全部が、その言葉の後ろに残る。
「結局、“やる理由”なんて後付けなんじゃないすか?」
ヘラを置く。
その笑顔だけで、言葉以上のものが伝わってくる。
迷いも、焦りも、全部ひっくるめて今を生きている感じがする。
視線をそらさずに彼を見つめる。
その眼差しや仕草から、ふと昨日の工房での光景を思い出す。
糸に触れる手と色の変化を見守っていたあの時間。
彼の迷いのなさは、あの藍色の布のように、目に見えない努力や時間の積み重ねを感じさせる。
小さく息を吐く。
ソースが焼ける香りが、少しだけ緊張をほどいてくれる。
「やってるやつは、やめてないだけなんスよ」
それだけ言って、水を一口飲む。
何かを押し付けるでもなく。
その声の明瞭さと、自分を信じ切っている堂々とした口調に、思わず肩の力が抜ける。
俺はこんなふうに、目の前のことに迷わず向き合えているだろうか。
鉄板の上には、食べ終えた跡だけが残る。
神戸の海も、児島の布も、さっきの島も、そして今も。
全部、同じところに繋がっている気がした。
小さく息を吐く。
「……ありがとう」
結城は少しだけ驚いたように目を開いた。
「別に、何もしてないっス」
「いや、勉強になった。ありがとう」
そのまま立ち上がる。
会計を済ませ、店を出る。
外の空気は、少しだけ熱を帯びていた。
人の流れの中に戻りながら、カメラバッグに触れる。
揺れる藍。
深く息を吸う。
まだ、怖さは消えていない。
でも──やめていない。
それだけで、いい気がした。
口元に微笑みを浮かべながら、自分もまた前に進めるように。
ふと、思い立って銀山町の停留所に立つ。電停というらしい。
セピア色のフィルターのようなアクリル越しに見える街は、まだ昼の熱をわずかに残していて、アスファルトの上に淡く揺れているかもしれない。
やがて、ゆっくりと滑り込んでくる広島電鉄の車両。
控えめなブレーキ音のあとドアが開くと、少しだけこもった空気と、人の気配が流れ出てくる。
車内は思ったより静かで、誰もがそれぞれの時間に沈んでいる。
軽やかな発車ベル。
吊り革に捕まる指先からわずかな揺れが伝わる。
ゆっくりと、街が動き出す。
窓の外を、店の看板や信号が流れていく。
大きく変わる景色ではないのに、切り取られていくような感覚。
まるでパラパラ漫画を見てるようだ。
やめてないだけなんスよ──
声が、車両の揺れに合わせて何度も浮かび上がる。
否定も肯定もせずに、ただそこにある言葉。
うまく整理できないまま、それでも確かに残っている。
吊り革を握る手が、少しだけ汗ばんでいることに気づく。
車輪が継ぎ目を踏むたび、身体がわずかに揺れる。
つり革同士が触れて、小さく音を立てた。
誰かのスマホから漏れる短い動画音。小さく笑う声。
しばらくすると視界が少し開け、川が見えた。
街の中に、静かに横たわる水面。
川に落ちた光が風にほどけながら揺れて、続いている。
その向こうに、少しずつ見えてくるものがある。
懐かしさに誘われて、足を運んだ目的地。
車両が少し減速する。
車内の空気も、ほんのわずかに変わる気がする。
「次は、原爆ドーム前電停」
アナウンスが流れ、ブレーキの音。
遠心力に引かれ、わずかな前のめり。
ドアが開く。
一歩、外に出ると、さっきまでの車内の空気が途切れる。
代わりに、少し広がった空と、川の風。
視線を上げる。
そこにあるのは、原爆ドーム。
崩れたままの骨組み。
空に抜けた、欠けた輪郭。
枠の向こうで、青だけがやけに広い。
時間が止まっているようで。
でも、風は確かに流れている。
観光客の足音。ざわめき。
誰かの日常と、ここに残ったものが、同じ場所にある。
記憶よりも近くて、思い出よりも静かだ。
風が吹く。
水面が揺れる。
人の足音が交差する。
異なるリズムで動く集団はツアー客だろうか。
聞き慣れない言葉、けれど感情が動かされていることは分かる。
そして注目を集めるその中心だけは、時間の流れから少し外れているみたいに動かない。
立ち止まる。昔はどう思ったんだったか。
思い出そうとして、やめる。
無理に言葉にしなくてもいい気がする。
ただ、ここに来たという事実だけが、静かに胸の中に落ちていく。
音はあるのに、ここだけ時間が曖昧な気がした。
街の中に普通にある違和感。
観光地と言っていいのか迷うズレ。
「これが、残ったんだね」
感嘆するような柔らかな声が、懐かしさを誘う。
今なら、言葉の意味が分かる気がする。
“壊れたもの”じゃなくて“残ったもの”。
消えなかったもの。
消せなかったもの。
そして、消さなかったものだ。
これは残すと決めたもの。
壊さないことを、選び続けたもの。
結果として、今俺の前にある。
相棒に触れ、ためらう。
──残すって、どういうことだ?
写真は残すのか?
記憶は残るのか?
何を残して、何を手放すのか?
相棒を持ち上げる。
けれどファインダーは覗かない。
ファインダーを覗けば、きっと整ってしまう。
覗いた瞬間に“意味”がついてしまう気がするから。
シャッターを押す指が、小さく震えて止まる。
「残すって、なんだろうな」
掠れて、息のような声が漏れる。
誰かに向けたわけじゃない問いが、風に乗って川の方へ流れていく。
観光客のシャッター音だけが、軽く何度も響いている。
カシャ、カシャ、と。
それは迷いがない音だった。
無邪気に撮る人。何度も撮り直す人。画面越しにしか見てない人。
誰も彼もが、手軽に撮影を楽しんでいる。
少し迷って、もう一度構える。
やる理由なんて後付け。
ふと、さっきの言葉が浮かぶ。
ここに来た理由も。
写真を撮る理由も。
きっと、後からいくらでも作れる。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




