第16話ー3
ベッドの上には、男装用の服が綺麗に畳まれていた。彼女が薄い生成りのワンピースを着ているなら、そんな姿で水場へ向かったとは、とても考えられなかった。
すぐに廊下に飛び出して探し回るも見当たらず、オクトは水場とは反対側にある、真っ暗な階段へ駆け上がった。 すると——手すりにしがみつき、身体を壁や柱にぶつけながら、ふらふらした足取りで階段を登っていく寝巻き姿のラーナがいた。
「止まれっ……!! どこへ行くんだ!!」
その時のオクトは、彼女の肉体を操っているのが悪魔だと確信していた。
ラーナの身体の中に潜むそれは、オクトの制止の声に一瞬たりとも反応することなく、歩みを進めていた。 オクトがすぐさま彼女の前に立ちはだかると、彼女の身体は恨めしいものに遭遇したかのように、両腕で彼を振り払おうと抗った。
「どけ! 邪魔をするな」
「そんな格好でどこへ行くつもりだ!? ラーナさんをどこへ連れて行く気だっ!?」
「うるさいな、お前には関係ないだろう」
柔らかなラーナの肩を押さえながら、オクトは最悪の事態に気づいてしまっていた。
「……あいつのいる方へ行こうとしているんだな?」
「……」
「ミルコに何があるんだ!? 前にあいつと会ったことがあるのは……お前(悪魔)なんだな!?」
「うるさいと言っているだろう!」
「絶対に行かせない!!」
オクトはサッと足元へ屈み込むと、ラーナの華奢な身体を一気に両腕で抱え上げ、お姫様抱っこをした。
生成り色の寝巻きが、月明かりに照らされて、彼女の肌までうっすらと透けて見えてしまいそうだった。
(身体が温かくて柔らかい……。ラーナさんの、いつもの甘い香りがする……)
「やめろっ……!!! 放せ、こいつっ!!!」
腕の中で悪魔が暴れ狂うのを、オクトは腕全体に全身の力を込めて固く封じ込めた。
「ラーナさん……そこにいるんだね? もう大丈夫だからね……」
意識の奥底に潜んでいるであろうラーナへ優しく呼びかけると、悪魔はさらに必死になってオクトの腕から逃れようともがいた。
「うるさい! あの女に話しかけたって無駄だ! 俺様はあいつのところへ行くんだ!」
その身体が動かないよう手足を力強く抱きすくめたまま、オクトは急ぎ足で暗い階段を駆け下りた。
「ラーナさんの身体であいつに迫るなんて……絶対に許さないっ!!」
「あの男はこの女にいつでも手を伸ばす準備ができていたぞ? ヘタレなお前なんかと違ってな……!」
「ダメだ……ッ!! あいつのところへ行くくらいなら、僕にしろっ!!」
オクトは感情を剥き出しにした強い口調で叫びながら廊下を走り抜け、部屋に入るとドアを勢いよく閉めた。それまで激しく暴れて抵抗していた悪魔は、驚いたように固まっていた。
「……僕を触った方がいいだろう!?」
オクトは、もう一度、悪魔にゆっくりと話しかけた。
「なんだ……あいつのところに行かせたくなくないのか?」
急に抵抗をやめた悪魔は、ラーナの可憐な手でオクトの頬へ優しく触れてきた。
「お前のその声で言うのを……やめろ……っ」
オクトのかすれた叫び声に、悪魔はサッと表情を変え、妖艶な笑みを浮かべた。
「ふふ……やっと、その気になってくれたのね……? 私ならいいのね……?あの人のところへ私が行くのが、そんなに嫌だった……?」
悪魔の声が、ラーナそのものの甘く可憐な声へと変わっていた。その指先のとろけるような肌ざわりに、オクトの頬が熱く跳ね上がる。
「可愛い……」
悪魔は彼が頬を真っ赤に染めた様子を見て、目を細めて可笑しそうに微笑んだ。そしてオクトの長い首筋へ、ラーナの頭を愛おしそうに擦り寄せてきた。 真っ白な両腕がオクトの首に回され、彼女が顔を寄せると——不意に、首筋へしっとりとした口づけが降り注いだ。
まるで絹のように滑らかな、小さな唇。
ラーナの吐息から漂う、甘い香り。
口づけは首筋を伝ってゆっくりと上り、やがて柔らかい耳たぶへと落ちてきた。
オクトの全身に電気が走り抜けるような感覚を覚えた。
(ううう、ラーナさん……)
彼女の柔らかい肌の感触と温もりに、このまま身を委ねてしまいたくなるほど、オクトの頭は再びぼんやりと麻痺しそうになる。
(ううう……流されちゃダメだっ……!ラーナさんがこの奥底で、きっと悲鳴を上げているに違いないっ……!)
悪魔を急いで振り払うことはせず、オクトは彼女の甘い唇へ、自身の頬をゆっくりと擦り寄せた。
泥酔しきったまま、彼女に触れる悪夢を見ているような気分だった。
そして頬や顎で口づけを巧みにガードしながら、彼女を優しくベッドへ横たえるフリをしつつ、そっと腰元の薬袋から薬草を取り出した。こっそりと、彼女の両腕に薬草を塗り込みながら、確実にツボを押していった。
「五、四、三、二、一——!」
「なっ、何をっ……!?」
悪魔が牙を剥いて起き上がろうとしたその瞬間——オクトは全身全霊の力を両腕に込め、至近距離から強力な白魔術を解き放った。 一瞬で決着をつけなければいけなかった。
「——ハルウィロっ……!!!!」
純白の数式を描く光が、閃光となって室内を爆発的に照らし出し、舞い散る無数の光の花弁となって悪魔の全身を完全に覆い尽くした。普段より、遥かに絶大な強い光に目を眩まされた悪魔は、驚愕のあまり逃げる暇もなく、その威力を真正面から受け止めた。
「ぎゃああああああっ……!!!!」
断末魔の悲鳴と共に、悪魔が彼女の手足の奥深くへと引き摺り込まれていくのを見届けながら、オクトは激しい息を吐き出し、ガクンと膝をついて頭を垂れた。
「お前が単純でよかった……。こんなに簡単に騙されてくれるなんて……」
そう呟きながらも、荒くなった呼吸をどうにか整えようと、オクトは必死だった。そして、なぜだか彼の目から、いつの間にか涙がこぼれていた。
オクトの目の前には、まだ赤く腫れ上がり、変形し始めているラーナの手足があった。オクトはその痛々しい手足にそっと寄り添うように、ツボ押しと薬草による処置を、今度はゆっくりと始めた。
(すごく……すごく痛いんだね……?ラーナさん)
そう思うと、彼女があまりにも可哀想で、どうにかして助けてあげたくて仕方がなかった。
一度に強い魔術を放ったオクト自身も、気力と体力の限界を感じ始めていた。
それでも、オクトは白魔術の光を灯し続けた。
どうしても、少しでも、彼女の痛む身体を和らげてあげたかった。




