第11話ー3
オクトが部屋の外へ出ていくと、ラーナは急いでベッドから起き上がり、手早く服を着替えた。
それから手持ちの小さな手鏡を取り出して、乱れた髪や顔を整え、部屋を出て水場へ駆け込んだ。冷たい水で簡単に顔を洗い、ようやく気持ちを落ち着けてから、待たせているオクトのもとへと急いだ。
食堂へ着いてみると、まだ夕食には少し早い時間だったらしく、そこにいたのはオクトと、店主らしい大柄な男性だけだった。男性は二人の前にスープやパン、肉料理を手際よく並べると、オクトに軽く合図を送り、そのまま外へ出ていってしまった。
「お待たせしました」
ラーナが急いで席につくと、オクトはにっこりと笑顔を向けた。
「この時間なので、僕たち以外には誰もいないそうです。食堂の主も畑へ出るそうですから、何も気にせず、ゆっくりいただきましょう」
そう言ってオクトは食事の前に祈りを捧げ、木のスプーンを手に取ると、湯気の立ち上るスープをひと口、口へ運んだ。温かな味が広がったのだろう。彼の表情がふっと和らぐのを見て、ラーナも手を合わせ、「いただきます」と心の中で感謝しながら、目の前の料理を口にした。
(久しぶり……ありがたいわ)
この世界では、いつでも当たり前のように温かな食事が食べられるわけではない。旅の途中で口にするのは、保存のきくパンや干し肉が中心で、温かいスープをゆっくり味わえる機会が毎食あるわけではない。
だからこそ、今こうして湯気の立つ料理を口にできることが、心の底からありがたかった。ラーナはスープの優しい味わいをひと口ずつ確かめながら、久しぶりに訪れた穏やかな時間を、そっと噛みしめた。
二人は終始笑顔で食事を楽しみ、食べ終えたあとも、しばらくはのんびりとした空気に包まれていた。ラーナが水を飲もうとしたところで、オクトは口元を拭い、少し改まった様子で話を切り出した。
「実は昨晩、またラーナさんの身体を通して悪魔が現れたのです」
――ぶはっ!!!
危うく、口に含んだ水を吹き出してしまうところだった。ラーナは慌てて口元を押さえたものの、驚きと気まずさで身体が前につんのめりそうになる。
(や、やっぱり?!!!)
夢と信じたかったけれど……何となく、そうじゃないかと思ってはいた。それでも、いざ本人の口から告げられると、どう反応すればいいのかまったくわからない。
(私の身体が何をしたのか、聞くべきなのかしら!? あんな破廉恥な話を聞くなんて、気まずすぎる! )
そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、ラーナは口元に両手を当てたまま、前傾姿勢でぴたりと動きを止めてしまった。
そんな彼女の様子を見て、オクトは不思議そうに首を傾げた。どうやら、ただ驚いただけではないと感じたらしい。しばらくラーナの顔をうかがっていた彼は、やがて遠慮がちに、しかし単刀直入に尋ねてきた。
「もしかして……記憶があるんですか?」
「えええ?」
「だって、前回は、まったく覚えていないってすぐにおっしゃっていましたよね。それで、『それは大変だわ……』って、青い顔をされていたのに……今、ラーナさんのお顔、真っ赤ですけど?」
「ううう……!!」
ラーナは返す言葉を失った。確かに、前回は何が起こったのかさっぱりわからず、魔王が自分の身体を使っていたと聞かされても、ただ恐ろしく思うばかりだった。けれど今回は違う。なぜかしっかり、意識だけはあった。
オクトはラーナの表情を読み取ろうとするように、少しだけ身を乗り出し、下の方から顔を覗き込むようにして目を合わせてきた。やがて、何かを確信したように小さく呟く。
「ああ……覚えているんですね」
「ご、ごめんなさい! すごい痛みと金縛りで……私の身体が勝手に動いてしまう夢なのかと思っていたんです……!」
「痛みが、そんなに激しくなっていたのですか? それに、金縛り……。現実に起きているとは思っていなかったんですね」
「はい。動こうと思っても動けなくて、声を出そうと思っても出せなくて……。本当に、私の身体が動いてしまっていたんですね!!! すみません!!!」
思い出すだけでも恥ずかしさがこみ上げ、ラーナは深々と頭を下げた。沸騰しそうなくらい熱くなる頬を両手で覆い、頭を上げることはできなかった。
けれど、そんなラーナとは対照的に、オクトは意外なほど冷静だった。彼は少し考えるように目を伏せてから、落ち着いた声で言った。
「悪の魔王があなたの身体を乗っ取っている間、あなたは身体が痛くて動けなくなるんですね。また、とても痛い思いをさせてしまいましたね……申し訳ないです」
オクトは深いため息をついて、眉を歪めて心配そうにラーナを覗きこんでいた。
「オクト様のせいでは……」
「いいえ、僕が宿について、すぐに処置すべきでした……まずは、ちゃんと整理しておきましょう。昨晩、何が起きたのか、話を聞かせてください」
その言葉に、ラーナはそっと顔を上げた。自分ばかりが恥ずかしがっているようで、なんだか拍子抜けしてしまう。もちろん、オクトにとっては彼女の身体に起きている異変を理解し、治療の手がかりを見つけることの方が重要なのだろう。そう思えば、いつまでも赤くなっているわけにもいかなかった。
二人は一度、食器類を片付けてから部屋へ戻った。これまで部屋の中を仕切るために積み上げていた荷物をすべて下ろし、テーブルを囲むようにして向かい合って座る。オクトは手元にペンとメモのようなものを並べ、さらには、いつの間に用意したのか、眼鏡のようなものまで取り出して顔にかけていた。
その姿を見た瞬間、ラーナは思わず背筋を伸ばした。
「か、書き留められるのですか……!? 全て記録なさるおつもりですか……!?」
「はい」
「ちょ……あのう……!! 全て書かれてしまうと……っ!」
半泣きで焦り狂うラーナの様子を見つめていたオクトは、ふっと目元を柔らかく崩した。
「ごめんなさい。ラーナさんがあまりにも焦るものですから、つい、おかしくなってしまって……。ちょっと意地悪をしてしまいました」
「い、意地悪すぎます……っ!」
(やっぱりこの方、想像以上にやんちゃでお茶目なんだわ……!)
オクトがペロッと小さく舌を出して悪戯っぽく笑う姿に、ラーナは顔を赤くしたまま、冷や汗を流すのだった。
「大丈夫です。大事なことだけ、もしかしたら記録しておかなければいけないかもしれない、という程度です。魔王があなたの指先から火を噴いたことや、僕の方へ近づいてきたこと、それから僕が呪文と施術で魔王を押さえつけたところまで、すべて覚えていますか?」
オクトの落ち着いた声を聞いているうちに、ラーナの心も少しずつ定まってきた。いつまでも恥ずかしがってばかりいても仕方がない。昨晩、自分の身体に何が起きていたのかを知ることは、これから魔王と向き合っていくためにも必要なことなのだ。
「いえ、ところどころは覚えているのですが、激しい痛みで気絶してしまっていたので、断片的にしか……」
「ええ? そうだったのですか。そんなに痛かったのですね……。記憶はところどころ途切れているけれど、身体の感覚は残っていた、ということですか」
オクトは心配そうに眉を寄せながら、手元のメモに何かを書き加えた。どうやら、記憶が途切れていることだけでなく、その間にラーナがどのような感覚を覚えていたのかも、重要な手がかりになると考えているらしい。
「手足は動かせなかったんですよね?」
「はい。本当に金縛りのように、自分では身体が動かせなくて。まるで別の誰かが私の身体を勝手に動かしているようで、まったく思いどおりになりませんでした」
「なるほど……。では、記憶として残っているのは、どのあたりですか?」
真正面から尋ねられたラーナは、途端に言葉に詰まってしまった。オクトは真剣に話を聞こうとしてくれているだけなのだとわかっている。それなのに、昨晩の光景が頭の中によみがえった途端、恥ずかしさが込み上げてきて、思わず俯き、彼から視線をそらしてしまった。
「えーーーーっと……何度も、その……ゴホン! ゴホン!ええと、オクト様に?触れようとしたり?それから、何度か、キ、キスを……迫ったり、していたところです……」
どうにか伝えようとするものの、肝心なところになると声が小さくなり、何度も咳払いを挟んでしまう。できることなら、そこだけ記憶から消してしまいたい。けれど、そんなことをしても何の解決にもならないのだから、困ってしまう。
ラーナの話を聞いたオクトは、かけていた眼鏡の位置をすっと指先で直すと、いつもの落ち着いた声で内容を確認した。
「自分の身体が言うことを聞かないまま、僕に触れようとしたり、キスを迫ったりしていたことは、覚えている、と……」
理路整然とした口調で言葉にされると、なぜだか自分の身に起きた出来事なのに、少し遠いところで起きた話のようにも感じられた。
(これ、世が世なら、悪魔とか魔王とかじゃなくて、二重人格だと思われてしまいそう……。私の深層心理がオクト様のことを求めていて、それで勝手に行動しているんだ、なんて言われたらどうしよう……? あれ? そもそも、本当に私がやっているんじゃないかって疑われたら……? まさか、自分でも気づいていないだけで、二重人格だったりするの……?)
考えれば考えるほど、頭の中が不安でいっぱいになっていく。魔王に身体を乗っ取られているという説明があるからこそ、今のところは自分の意思ではないと信じられるけれど、もしもその説明すら疑われてしまったら、いったいどうすればいいのだろう。
そんなことを悩んでいたラーナは、ふと、あることに気づいて顔を上げた。
するとーーオクトの顔まで、真っ赤だった。
(?!)
いや、頬だけではない。首元まで赤く染まり、よく見ると耳まで真っ赤になっているではないか。
(えええ? オクト様まで、すごく真っ赤なんですけど……?!)
自分ばかりが恥ずかしがっているのだと思っていたのに、目の前の彼まで同じように赤くなっている。そのことに気づいた途端、ラーナの頭はますます混乱してしまった。
いったい何を考えているのだろう。昨晩の出来事を思い出しているのだろうか。それとも、やはり自分の行動を気味悪く思っているのだろうか。
考えても答えは出そうになかったので、ラーナはひとまず、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「……あの、『キスしたら、この女の苦痛だけは消してやってもいいのに』って、男性の声が言っていませんでしたか?」
「はい。悪魔の声で、そう言われました」
オクトもまた、先ほどの様子を押し隠すように、できるだけ冷静な声で答えた。
「ということは、魔王はオクト様に執拗にキスを迫っていたんですよね。もしかすると、そうすることで何か得られるものがあるのかもしれません」
「確かに……」
二人は真面目に話し合おうとしているのに、どうにも落ち着かない。お互いに平静を装っているつもりでも、顔は赤いままで、目が合いそうになると、どちらからともなく視線をそらしてしまう。魔王の目的を探るための大切な話をしているはずなのに、まるで自分たちの方が何か後ろめたいことでもあるかのようだった。
「キスさえしなければ、魔王が何かを得るのを阻止できるのではないでしょうか……?」
ラーナがそう口にすると、オクトははっとしたように顔を上げ、勢いよくこちらを向いた。
「そうですね!魔王の狙いそのものはまだわかりませんが、少なくとも、キスを防ぐことは当面の対策になりそうですね」
「そ、そうですよね」
二人はようやく目を合わせたものの、今度はそのこと自体が気恥ずかしくなり、ほとんど同時にすっと視線を外してしまった。それでも、ラーナの頭の中だけははっきりしていた。
(もしかして、魔王が巨大化していくこととも、何か関係があるのかもしれない……)
魔王が何を企んでいるのかは、まだわからない。ただ、あれほどしつこくキスを迫ってきたのだから、単なる嫌がらせではないはずだ。何かを得ようとしているのなら、それを阻止することが、魔王の力を抑える手がかりになるかもしれない。
「では、これからは、絶対キスをしないように気をつけてください!!」
「はい!わかりました!僕がしっかり防ぐようにします」
オクトが俯きながら冷静に告げた言葉に頷きつつ、ラーナは胸の奥に小さな痛みが生まれるのを感じていた。
(私からのキスを拒んでいるわけじゃなくて、魔王を防ごうとしているだけなのに……。それなのに、なんだかすごく拒絶されているような気がする……。なんてね。まあ、何も考えないようにしよう)
ラーナは一度、胸の中に湧き上がった気持ちに蓋をして、そっと顔を上げた。すると、オクトもまた、深く俯いたまま何かを考え込んでいることに気づいた。
「……僕のような男と、身体を近づけてしまったり、素肌で触れてしまったりするなんて……。気持ち悪かったですよね。本当に、すみません」
突然そんなことを言い出したオクトに、ラーナは驚いて目を見開いた。
「え……?」
「宿に着いてすぐ、僕がきちんと治療していれば、あんなに苦しい思いをさせずに済んだのかもしれません。あなたにひどい痛みまで味わわせてしまって……。もっと早く気づいていればと、後悔していました」
そう言って、オクトは両手を膝につき、深々と頭を下げた。先ほどまでの照れた様子とは違い、その表情には、自分の力が及ばなかったことへの悔しさと、ラーナを苦しませてしまったことへの申し訳なさがにじんでいる。
そんな彼を見て、ラーナは慌てて両手を前に出した。
「そんな……! どうか、お顔を上げてください。オクト様は、すぐに対処してくださったではありませんか。それに、魔王のことも、オクト様が鎮めてくださったのですよね?」
ラーナがそう告げると、オクトはゆっくりと顔を上げたものの、まだどこか自信なさげに小さく息を吐いた。
「はあ……」
「それは本当にすごいことですよね!!」
ラーナは、少しでも彼の気持ちが軽くなるようにと、できるだけ明るい声で続けた。
「魔王を押さえ込める方なんて、この世界には、まだオクト様しか見つかっていないんですもの。そんなことができるのは、本当にすごいことだと思います!」
「……」
「私の方が、オクト様に大変な思いをさせてしまいました。私の身体のことで、これからも嫌な思いやご迷惑をおかけしてしまうと思いますが……どうか、また魔王が現れたら、治療で押さえていただければと思います。今回も、本当にありがとうございました!」
ラーナは心からの謝罪と感謝の気持ちを込めて、深く頭を下げてからにっこりと微笑んだ。




