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第10話−2

「ねえ……ほら、大丈夫だよ。思いっきりキスしよう……?」

 高く、ゆったりとしていて、愛らしい声。

 聞く者の腹の奥まで染み込んでくるような、甘く柔らかなラーナの声だった。

 その声を聞いた途端、オクトの胸の中で激しい怒りと苛立ちが膨れ上がった。


「やめろ!! ラーナさんの声を、お前が使うな!!」

「キスしたら、この女の『苦痛』だけは消してやってもいいのに……。くくく、どうする?」

 魔王は、こらえきれないといった様子で笑い出した。——オクトは、その一瞬の隙を逃さなかった。

「――っ!」


ラーナの頭を自分の左胸に抱き寄せるようにして、強く抱きしめる。そのまま彼女の身体を支え直し、お姫様抱っこの形で持ち上げた。

「!?」

魔王が驚いたように目を見開く。


オクトはラーナの身体をしっかりと抱え、魔王がキスできないように顔を押さえ込んだまま、素早くベッドへと運んだ。

(軽い……)

そして、彼女を傷つけないようにそっと下ろすと、瞬時に部屋の奥へと飛び退き、距離を取ると、魔王が叫んだ。


「逃がすかっ!」

悪魔はオクトを追いかけ、禍々しい真っ黒な煙を解き放った。オクトは空中で腕を高く振り上げ、迫り来る黒煙へ向けて呪文を叫んだ。

「——ハルウィロっ……!!!」


指先から迸る光の粒で描かれた数式から、巨大な光の花弁が舞い散る。その光輝は悪魔の黒煙を幾重にも散らし、木っ端微塵に吹き飛ばしていった。その隙を突いて、オクトは腰の袋から薬草を取り出した。

「チッ、この野郎……!」


大半の黒煙を吹き飛ばされた悪魔が焦って手を伸ばしてきたが、オクトは間一髪でそれをかわし、ラーナの手首へ術とツボ押しを叩き込んだ。


「五、四、三、二、一。——!」

まるで見えない力に引き寄せられるように、いくつもの黒い塊がラーナの指先へと戻っていく。やがて、最後の黒煙までが指先へと吸い込まれ、赤い腫れに変わった。

悪魔の気配が消え、部屋の片隅でラーナの身体が、ぐらりと力なく傾きはじめた。


「ラーナさん!」

オクトはすぐさま駆け寄り、床へ崩れ落ちそうになった彼女を受け止めた。

腕の中のラーナは、ぐったりとしていた。


彼女の手首も、指先も、両足首も――炎症は、さらに悪化していた。患部は、赤みを通り越し、痛々しい紫色にまで変色していて、パンパンに膨れ上がっていた。


(ああ、また……。進行している……! 魔王が出てくる前に止められなかった……。どうしよう、ラーナさん、すごく痛かったはずなのに……)

オクトの胸が、ぎゅっと締めつけられた。宿に着いてすぐ、白魔術をかけていればよかった。指圧をして、薬を塗っていればよかった。彼女が疲れていることに気づきながら、身体の異変にまでは思い至らなかった。



あのとき、ラーナはうつむいていた。いつもなら明るく話してくれる彼女が、どこか元気を失っているようにも見えた。


 それなのに――。


激しい後悔と胸を刺すような痛みが、オクトの心を苛んだ。ラーナの可憐な身体が悲鳴を上げていたことに気づけなかった己の不甲斐なさに、自分を絞め殺してしまいたいほどの感情が込み上げた。

息をしていることを確かめ、小さく刻まれる心臓の鼓動を胸に感じ取ると、目頭が熱くなり、思わず涙が溢れそうになった。


あまりにも切なく愛おしくて、オクトは彼女の細く小さな肩を、一度だけぎゅっと強く抱きしめた。

(いけない……こんなことをしている場合じゃない……!)

すぐに気持ちを切り替え、そっと彼女をベッドへ寝かせる。それから、両手と両足首、十本すべての指先、さらには両膝まで、ひとつずつ状態を確かめながら、何度も、何度も白魔術をかけた。


指圧を施し、薬草を丁寧に塗り込んでいく。少しでも炎症を鎮められるように。少しでも痛みを和らげられるように。オクトは、自分の力が尽きそうになるまで治療を続けた。


(ごめんね、ラーナさん……あなたの身体に、こんな無理をさせてはいけなかった……)

治療を続けながら、オクトの頭の中では、さまざまな考えが巡っていた。


移動手段を見直すべきなのだろうか。今日のような馬での移動は、今の彼女の身体には負担が大きすぎたのかもしれない。



明日は一日、この村で休んだ方がいいのではないだろうか。それとも、ほかに何かできることがあるのだろうか。考えなければならないことが多すぎて、すぐには答えが出なかった。


そして、もうひとつ。

(それに……悪魔は、何か大切なことを言っていなかったか?)

 何かが、心の片隅に引っかかっていた。悪魔が、ただ自分をからかい、誘惑しようとしていただけなのだろうか。色々と話していた言葉や、行動の中に、ラーナの苦痛を取り除くための何かが隠されていたのではないか?

 思い返そうとしても、怒りと焦りにかき乱された頭では、うまく考えがまとまらない。


一度落ち着いて、ラーナとこれからの計画や治療方法を見直さなければならないということだけわかっていた。

移動のことも、魔王への対処も、そして彼女の身体をどう守っていくかも。


ラーナの呼吸を確かめ、腫れた手足を見つめ、また彼女の顔へと視線を戻す。彼女が目を覚ますまで、目が離せなかった。今度こそ、何かあればすぐに気づけるように。


オクトは夜が明けるまで、ラーナのベッドの傍らを片時も離れることができなかった。


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