第10話:甘い彼女との毒のような夜(オクト目線)
「ラーナさん、お待たせしました。……もう眠ってしまわれましたか?
オクトは、食事を包んだ布巾を片手に、音を立てないようにゆっくりと鍵を開け、そーっと部屋へ足を踏み入れた。そして、仕切りの奥にある彼女のベッドに向かって優しく語りかけた。
「ラーナさん?」
——だが、ベッドの上はもぬけの殻だった。
(……!? 大変だ、どこへ……!?)
まさか外へ出たのかと思って、部屋中を見回すと、棚の奥の方で、柔らかな寝巻きに着替えたラーナが倒れていた。
「ラーナさん、しっかりしてください! ラーナさん!」
床に膝をつき、彼女の身体をそっと抱き起こすが、返事はない。
(大変だ……! やっぱり、身体が痛くなってしまったのか!?)
気を失っている彼女の身体を慌てて抱き上げると、その手足は痛々しく赤紫色に腫れ上がり、激しい熱を帯びていた。すぐに薬草と治癒の準備をしようと腰の袋へ手を伸ばした。
その時——。
「もう、大丈夫です。ちょっと疲れちゃって……」
オクトが顔を上げると、ラーナがゆっくりと目を開いた。
腕の中で意識を取り戻した彼女が、ぼんやりした様子でオクトをじっと見つめていた。
「ラーナさん! 今日は無理をさせてしまって申し訳ありません……今、お体は痛みますか!?」
彼女を支える腕に思わず力が入る。華奢な肩や小さな腕が、オクトの大きな掌の中で弱々しく震えていた。
「大丈夫ですか……!?」
もう一度、そう尋ねたその時だった。
ラーナはゆっくりと、ミルクティー色の髪の毛を肩にはらった。
はだけた寝巻きの胸元から、透きとおるように美しい真っ白な鎖骨が露わになった。
「ええ。もう大丈夫……」
オクトは一瞬にして悟った。
——いま語りかけているのは、ラーナ自身の意識ではないと。
灯りの届かない暗がりの中、彼女の瞳の奥が怪しく妖光を放っている。
「……ああ。魔王だったのか……?」
オクトは、彼女の顔を見つめたまま、冷静を装って低く呟いた。
「ラーナさんは、ちゃんと中にいるんだろうな?」
すると、ラーナの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「ははは……。すぐに気づいたんだな」
その声は、ラーナの柔らかな声ではない。冷たく、こちらの反応を面白がるような、低い声だった。
その瞬間、彼女の手足から、真っ黒な炎がぼうっと立ち上った。
「……っ!」
黒い炎は、指先から手首へ、足先から膝へと、音もなく揺らめいていく。部屋に置かれたランプの火までもが、暗黒色に染まり、周囲の空気が急激に冷たくなっていった。
ラーナの顔をした魔王は、オクトを見上げながら、冷ややかに口元を緩めた。
そして、白く細い指を伸ばし、彼の頬へと触れようとする。
「やめろ!」
オクトは反射的に顔を背けた。けれど、柔らかな彼女の身体は、まだ自分の腕の中にある。ここで乱暴に身をかわし、ラーナの頭をタイルの床にぶつけてしまうわけにはいかなかった。ゆっくりと降ろそうとするもと、悪魔は身体に力を入れて、彼女の頭を床に叩き落とそうとしていた。
かといって、抱きかかえたままでは、自由に動くこともできない。
(くっ……! どうすれば……?)
魔王は、そんなオクトの葛藤を楽しむように、さらに身体を寄せてきた。
「ほら、お前の腕の中にいる、この女は柔らかいだろう? 心地いいだろう?」
「やめろと言っている……っ!」
オクトが声を荒らげても、魔王はまるで気にしていなかった。ラーナの身体は、まるで彼に縋りつくかのように、真っ白で甘い両腕を首や肩へと絡みつかせてくる。
その手は驚くほど柔らかく、触れられるたびに、オクトの意識をかき乱すような感覚が走った。
(ううう……っ!ラーナさんの指が柔らかい……)
ふわりと漂う甘い香りが、鼻先をくすぐる。
(彼女のいつもの……甘い薔薇の香りがする……!)
オクトは頭がくらくらするのを感じながらも、必死に意識を保とうとした。左腕では、彼女の頭を支えながら、右手では、頬へ伸びてくる白い指を何度も振り払わなければならなかった。
(薬を取り出せない……! このままじゃ、何もできない!)
腰元の薬袋に手を伸ばそうにも、どうにも身動きが取れない。
(せめて……せめて、頭の下に何か敷けるものがあれば……!)
そのラーナの身体を傷つけずに、この状況を切り抜けなければならない。オクトは、腕の中で妖しく笑う魔王を睨みつけながら、必死に次の手を考えていた。
「……キスしたら、どれだけ気持ちいいと思う……?」
悪魔はラーナの唇で、吐息を吹きかけるように囁いてきた。
「ラーナさんのことを冒涜するなっ……!!!」
オクトが強い口調で一閃すると、悪魔はケラケラと嘲笑うように声を上げて笑い出した。
「ふははっ、お前は自分で分かっていないのか? この身体を本気で欲しそうな目で見ているくせに。この無骨な手で、この柔らかい肌を好きなだけ汚していいんだぞ……?」
「何を言って……!!お前みたいな悪魔がいるときに、そんな真似するわけないだろ!?」
オクトは声を荒らげ、魔王を威嚇しても、魔王は怒るどころかますます嬉しそうに笑った。
「そうかそうか!いなければできるんだな!!ならば消えてやろう!ハハハハっ!!」
魔王が高笑いしたかと思うと、一瞬にして、その声色をラーナそのものの甘く可憐な声へと変えた。




