第9話ー2
◇ ◇ ◇
二時間ほど走り続けたところで、二人は川辺に馬を寄せ、ククルを休ませることにした。
木々の間を抜けてきた風が水面を揺らし、朝の光を受けた川がきらきらと輝いている。オクトとラーナも水辺へ降り、しばらく身体を休めることにした。
ちょうどよい場所にあった切り株へ並んで腰を下ろすと、持ってきたパンを広げる。
硬めの皮を噛みしめると、香ばしい小麦の風味が広がった。
旅の途中で食べるには、ぴったりのパンだった。
朝日が木々の隙間から差し込み、小鳥たちが、ちょんちょんと跳ねながら近づいてくる。
(パンの食べかすをもらいに来たのかしら? ふふふ、なんだかアニメ映画のヒロインになったみたい)
そう思うと、目の前の小鳥たちがいっそう愛らしく見えてくる。
ラーナが小さくちぎったパンのくずを切り株のすぐ横へ差し出すと、可愛らしい鳥たちが彼女を囲んだ。その様子を、隣の切り株に座っていたオクトが、目を丸くしてじっと見つめていた。
「……小鳥にあげるなんて」
まるで信じられないものを見たかのような声だった。
純粋な瞳で、恥じることもなくまじまじとこちらへ目を向けていた。
「お腹が空いているのかな、と思って」
「……僕なら『食べないで!』ってすぐに追い払ってしまいますけれど……」
「ふふふ。小鳥たちが可愛らしくて」
(オクト様って、想像以上にやんちゃでお茶目なところがあるのね……。怒鳴るのも普通だったって言っていたし)
長い手足をバタバタさせて鳥を追い払う彼の姿を想像するだけで、可笑しくて笑いがこみ上げてくる。
(……ふふっ。なんだか、ちょっと見てみたいかも)
「ラーナさんは、それで足りるのですか? 動物にまでお優しいのですね……。とても珍しいです。……ああ、だから、ククルもすぐに懐いたのですね」
「え……?」
ラーナがパンを味わいながら彼の方を見ると、そこには眩しいほどの弾けるような笑顔があった。
「ククルはこんな速さで走るほど、すごい体力でしょう? ほら、今も七本もあった人参をあっという間に平らげて、草を貪っていますけれど、あいつが人間なら大食漢の豪傑ですよ。それなのにラーナさんの前では子犬みたいに甘えて可愛らしくしていますから」
「ふふふ……!」
ラーナがククルの方へ目を向けて、オクトの方へ視線を戻すと、彼はもうとっくにパンを食べ終えていた。つい先ほどまで手に持っていたはずなのに、いつの間にか両手は空っぽになっている。
「わあっ、気づかずにすみません!オクト様、ご飯、足りなかったですよね?」
ラーナは慌てて、自分の手元を見て、荷物を探り始めた。
「私の分を小鳥にあげずに、もっと差し上げればよかったです。これをちぎっては小さいですか?確か、干し肉なども持ってきていたような……」
オクトは、慌てたように両手を振った。
「僕のことまで、そんなに気遣わなくて大丈夫ですよ。保存食は、もしものときのために取っておいてください。シアール村に着いたら、ゆっくりと、ちゃんとした食事をいただきましょうね」
そう言って、オクトは水筒の水を飲み干すと、空になった容器を手にして川へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、ラーナはふと、今の自分たちの状況を思い返した。
(……よくよく考えてみると、これって、奇跡みたいなことだわ……)
一週間ほど前に出会ったばかりの、とても素敵な男性と、二人きりで旅をしている。
出会った頃は、オクトと美しい中庭でお茶を飲みながら、焼きたてのクッキーを頬張るような時間を夢見ていたけれど、まさか、今もその彼と一緒にいられるなんて……。
(……ふふっ。とはいえ、病気と悪魔というおまけ付きという、こんなに泥臭くて大変な旅だけどね……)
想像していたものとはずいぶん違うけれど、それでも、彼のおかげでこの旅が少し明るく、温かいもののように感じられた。
「ククル、もう少し頑張りましょうね」
食事を終えたラーナが優しく声をかけると、ククルは再び、ルルル……と喉を鳴らした。
オクトが手綱を整え、ラーナが補助鞍へしっかりと身体を預ける。準備が整うと、二人はまた馬に乗り、旅を再開した。
途中、昼間に何度か休憩を挟みながらも、ククルは驚くほどの速さで森の中を駆け抜けていった。ラーナは、今度こそ余計なことを考えず、振り落とされないようにオクトへしっかりとつかまり続けた。
◇ ◇ ◇
やがて、夕闇が少しずつ世界を覆い始める頃。
二人はようやく、小さなシアール村へとたどり着いた。道の先には、村にたどり着いた人々が馬を交換する姿や、真っ暗になる前に家へ急ぐ人たちで賑わっていた。その光景を目にした途端、ラーナは胸の奥から、ほっと安堵の息をついた。
(……よかった。ちゃんと、人のいる村に着いたわ)
二人は無事にククルを安心して預けられる厩舎を見つけ、すぐそばにある大きな宿へと足を運んだ。宿内へ踏み入れると、時期的なものか、かなり空いているようだった。
「二部屋、すぐにご用意できますよ。……ただ、ちょっとお部屋同士の場所が離れてしまうのですが……」
宿の女将が受付でそう案内してくれた途端、オクトがサッとラーナの袖口を軽く引いた。 オクトは女将へ「ちょっと失礼」と片手を挙げて断りを入れると、ラーナを少し離れた壁際へと促した。そして、彼女に向き合うなり、なんだかモジモジと指先を弄み始めた。
「えーっと……そのう……」
「……?」
「ラーナさん。もしよろしければ……今日は、一部屋にしませんか……?」
「ええっ……!?」
「あ、同じ部屋の隣同士のベッドで寝ても、絶対に大丈夫だと思いませんか……!? 僕は神官で、あなたは患者さんですし……! 神に誓って何もしないと約束しますから……!」
オクトは左手を胸に当て、右手を天へ掲げて見せた。
「えええっ……!?」
あまりにも思いがけない提案に、ラーナは目を丸くして固まってしまった。自分の言葉にラーナがどん引きしていると思い込んだオクトは、一気に焦り出し、マシンガンのような勢いで大量の言い訳を捲し立て始めた。
「ま、まず、都へ行くまでに二週間ほどかかりますよね!? その間、少なくとも僕たちは最低でもあと十四回も宿に泊まることになります! 旅費を節約したいのです! 大体こういった宿は部屋にベッドが複数入っているのに、ふた部屋も借りたらお金が倍かかってしまいますよね!? 一部屋なら宿泊費が二分の一に節約できるのです!! 国から支給されているお金ですから、無駄遣いは厳禁です! それに……!
もしも、もしも夜間にラーナさんの中の病気が悪化した場合、部屋が離れていたらすぐに看ることができなくて大変です!! あれが出てきて僕がすぐ対応できないとまずいですよね?二人で同じ部屋に泊まっても、ベッドの間に大きな荷物を置くとか、布で仕切りを作るとか、着替えの時は交互に外へ出るとか、いくらでも工夫できますよね!?」
普段は切長の半月眼で、どこかミステリアスに閉ざされている瞳を限界まで見開き、オクトは身振り手振りを交えて、いつもの穏やかな口調とは比べ物にならないほどの早口で喋り倒していた。その必死すぎる姿がおかしくて、ラーナは思わず吹き出してしまった。
「……ふふっ」
「えっ?あの、ラーナさん?僕は、決して変なことを考えているわけでは……!」
「ふふふっ。わかっています。大丈夫ですよ」
ラーナは笑いをこらえながら、彼の顔を見上げた。そして、少しだけ声を落として、静かに尋ねた。
「……私の、体調を考えてくださったんですよね?」
その一言を聞いた途端、オクトはぴたりと口を閉じた。先ほどまでの勢いが嘘のように消え、すっと一歩だけ後ろへ下がると、彼は小さく頷いた。
「……はい」
その表情には、先ほどまでの慌てぶりとは違う、どこか真剣なものが浮かんでいた。
(私の中にいる悪魔が、オクト様の前に出てきたことがある……。それで心配されているのね……)
ラーナが悪魔に身体を乗っ取られた時、自分自身には全く記憶がない。その時のために、すぐに対処できるよう考えてくれているのかもしれない。
ふと、ラーナが見上げると、オクトは彼女の返事を待つように、少し不安げな目を向けていた。
「わかりました。今日から一部屋にしましょう」
「……!!よかった!」
オクトは心の底から安堵したように、ほっと大きな息をついた。
そのあまりにもわかりやすい反応を見て、ラーナの胸の奥には、ほんの少しだけ、諦めに似た気持ちが湧き上がった。
(どうせ私は、この世界では、行き遅れた年上の女だし……オクト様にとっては大切な『患者』でしかないものね。何もなくて当たり前なんだけれど……)
そう頭ではわかっていたはずだった。割り切っていたはずなのに、ひとりの女性として意識されていないことに、どうしても一抹の寂しさを覚えてしまう。自分がそんなことにモヤモヤと浮足立っていることに、ラーナは戸惑いを隠せなかった。
彼とは出会ってまだ一週間ほどしか経っていない。それなのに、いつの間にか、彼の何気ない言葉や仕草ひとつで、こんなにも心が揺れてしまう。
(……私、いったいどうしちゃったんだろう)
ラーナがひとりで複雑な気持ちを抱えている間に、オクトは受付へ戻り、宿泊の手続きを済ませていた。
そして、鍵を受け取ると、どこか嬉しそうな顔で廊下を歩き始めた。
ラーナの大きな荷物を、当然のことのように自分の肩へ担ぎ、彼女がついてきているかどうか、何度も振り返って確かめてくれる。段差があれば足元に気を配り、少しでも歩きにくそうにしていれば、すぐに手を差し伸べようとしてくれた。
そのひとつひとつが、温かく、自分のことを気にかけてくれているのだと、素直に嬉しくなってしまう。
(……でも、それは患者だからなんだよね)
心の中でそう呟いた途端、ラーナは思わず俯いた。
わかっていたはずのことなのに。自分で納得して、割り切っていたつもりなのに。
オクトが優しくしてくれるたび、その優しさに期待してしまいそうになる自分がいる。そして、彼の中では自分があくまで患者なのだと思い知らされるたびに、ほんの少しだけ傷ついてしまうのだった。
ラーナは、胸の奥に広がる複雑な気持ちを抱えたまま、オクトの後ろを静かについていった。




