第1話:旅のはじまりはじまり(ラーナ目線)
ずってーん!! ドタン!!!
ラーナは腕を伸ばしたまま、漫画のようにド派手にずっこけた。背負っていた大きな旅用の荷物も、衝撃で地面に転がった。
(いたたた!!……本当にものすごく痛い……)
世界が夜の帳に包まれた頃。
広大な森に囲まれたこの村には、有名な診療所を持つ修道院があると聞いていた。療養したという人々の話を頼りに、ラーナは激痛の四肢を引きずり、どうにか馬車を乗り継いで、やっとの思いでたどり着いたのだった。
それなのに、夕暮れから既に修道院は閉まっており、どこの宿も家も人が出払っていて、村中が真っ暗だった。話を聞ける人も誰も見当たらなかった。どうにか、野宿でもどんな形でも、今晩過ごせるところがないか、探している最中……。
思うように動けなくなった足を割れ目に引っ掛け、思いっきり転んでしまった。
(ああ、またやっちゃってるよ……)
水浴びも、着替えすらできなそうな夜なのに、さらに砂だらけにまでなってしまうとは……。
一ヶ月も激痛の上に、びっこをひいて歩いてきた疲れからか、ラーナは突っ伏したまま眠ってしまいそうな勢いだった。
(いっか。もういっそこのままでも。どうせ痛いし、黒煙まみれだし、砂まみれで寝ちゃっても変わらないか……ははは)
そう。ことの始まりは一ヶ月前のある晩。
ラーナがいつものようにベッドで眠っていると、真っ黒な煙と炎に身体中が包まれた。手足が焼けるような痛みに襲われ、飛び起きると、指先の黒煙が話し始めた。
「ははは!激痛に驚いたか?悪女よ……」
「ううっ……あなたは?」
激しく顔をゆがめ、痛む腕をおさえながら、指先に問う。
「我こそは、破滅の悪の魔王。我輩が住み着いた己の身を存分に憐れむがいい!」
大きな笑い声と共に、黒煙はラーナの両手足の指先に染み込むように張り付いたかと思うと、赤くなり、パンパンに膨れ上がった。
(ううう……すごい痛い……!!!)
そのショックと同時に、ラーナの前世の記憶が蘇った。前世は日本人で、今いるここが愛読書の中の世界だったことに気づいたのだった。
(た、大変!!色や形といい、挿絵と同じ……。この指先の腫れは、この国を壊滅に導く悪の魔王が取り憑いた証拠だわ……)
彼女は、ここから一年ほどかけて魔王に身体を奪われてしまう、悪女ラーナ・ミネルに転生してしまっていたのだった。
手足をさすりながら、ベッドの淵に腰掛ける。
(小説では、魔王は狂った悪女のラーナに取り憑いたのよね。……私、もう自分でもわからないうちに正気を失ってたのかな……?)
思うように立ち上がれず、床を這うように、鏡台へやってきて自分を見つめた。まだ顔や首から胸元にかけては赤みもなく、腫れていない。
(まだ、大丈夫なはず。まず一旦、落ちついて。絶対に家族を守らないと!そのためには何ができるかな?……もしかして、私の身体ごと魔王を殺せないのかしら?……)
前世でこの話を読んだ記憶を一生懸命、辿って見る。確か、破滅の魔王は、取り憑いた人間の死後、すぐに別の人に寄生したことを思い出した。
(だめかも……この悪の魔王はラーナの死後、数人の男性に寄生して、その人間たちの心や魔術や身体を食い尽くして殺し、むしろ巨大化するんだった……)
その巨大化によって、この魔王はさらに多くの街や国を滅ぼし続ける。確か、マグマや海底に身を投じて殺そうとすると、そのエネルギーをも魔王の力として吸収してしまっていたはずだった。
唯一、魔王を倒す手立てを知る、小説の主人公達も、いくつかの国が滅ぼされるまでは現れない。
(今、彼らのことを待ってる時間は少しもない……!!)
そう思うと、ラーナにできることはたった一つ。
一刻も早く、この国を離れ、家族から遠ざかることだった。
(その間に体の中の魔王の討伐方法を探して、もし見つからない場合は、私の身体ごと、魔王を人里離れた、どこかに封じ込めないと!!)
今はそれしか、策が思い当たらなかった。ラーナは痛む手足で、すぐに衣類や食料を大きな布袋に詰め込み、夜のうちに家を後にした。家族には「旅行に出ます」と、一言だけメッセージを残して……。
毎日、ラーナは痛みがひどくて、意識も朦朧としていたけれど、それでも大急ぎで故郷から遠くに離れた。情報を得るため、言葉の通じる隣国の大きな都へやってきた。たくさんの病院や教会を回って、薬や白魔術で治療してもらっても、激しい痛みと腫れは変わらないままだった。でも、それらの病院を回っている間に、凄腕の修道院があるという噂を聞いた。
もしかすると、魔王についての情報や、何か少しでも対処法がわかるかもしれないと思い、杖をつき、びっこをひいて、ようやくこの村へ辿り着いたのだった。
◇ ◇ ◇
ラーナが激痛の足を割れ目に突っ込んだまま、ゴロン、と転がって空を見上げると、なんとも美しい星空だった。
(痛いなあ……手足の痛みも腫れも、思ってた以上に進行してるけど……)
空に手をかざし、指先の腫れが、手首や足首まで進行しているのを眺めた。
「私は、どうしてもボリスとルチアを守りたい……」
空に向かってつぶやくと、大切な弟夫婦の顔が頭に浮かんだ。
その時。ランプを持った大きな影が駆け寄ってきた。
「どうしたんですか?大丈夫ですか?」
ランプに揺れるアッシュブルネットの髪。
キリッとした奥二重の半月眼。
面長で、顎までシャープに整った顔。
細身で、すらりと長い手足。
夜道に突如現れた長身の男性は、ラーナには騎士のように見えた。
――けれど、近づいてきて初めて気づく。全身を包んでいるのは、夜よりも黒い修道着だった。
「どこか痛めたようですね?立てますか?」
彼は屈んでラーナの顔を覗くと、しゃがみ込んで大きな手を差し伸べてくれた。
「すみません、大丈夫です……ゲホゲホゲホ」
彼の方から、顔を背けたまま立ちあがろうとすると、またひどく咳き込んでしまう。しかも手足の激痛もあって、うまく立ち上がれなかった。
(うう、恥ずかしい)
その様子を見かねたのか、三白眼で鋭い表情の彼は、その面持ちとは裏腹に、優しい声でゆっくり語りかけてくれた。
「立ち上がるのも辛そうですね。僕はここの修道院の者です。どうぞ、ご安心ください。オクト・ハミスと申します」
彼は首元からネックレスを取り出すと、紋章を見せて、真っ直ぐにラーナを見つめた。
上手く返事をしたかったけれど、またもや思い切り大きな咳が出てしまった。
「ラーナ・ミネルです……ゴホゴホゴホ」
ラーナは、口元を手ぬぐいで抑えるだけで精一杯だった。
「大変ですね。咳を止めたいので、少しだけ腕に触れますね、失礼します」
オクトはそう言って、ラーナの肘の内側をゆっくり指で押してくれた。
「五、四、三、二、一」
背が高く、手も大きいのに、爪だけは可愛らしく丸いアンバランスな手に、彼女は思わず見惚れてしまった。
そのあと、ラーナが一度だけ大きく咳き込むと、さらにオクトは腰から何か薬草を取り出していた。
「ゆっくりでいいので、鼻から吸ってください」
とても爽やかな香りがして、喉の奥の痛みが少しだけやわらいだ気がした。
(ハッカとシダーの香りがする)
深呼吸するラーナの様子を見ていた彼は、ふと口元を緩めて、彼女の方へ首を傾げた。
「よろしければ、ちょっと礼拝堂に入って、休みませんか?」
「はい。ありがとうございます」
ラーナの声を聞いて、オクトは彼女を引き上げて立たせると同時に、その綺麗な手で、スカートについた砂や泥を一生懸命、何度も払ってくれた。
「す、すみません。本当にありがとうございます……」
消え入るような声で頭を下げると、彼は気にする風でもなくふわりと微笑んだ。
クールな目元が、柔らかく溶けるように細くなる様子を見て、ラーナも胸の奥が少し温かくなる。
そのまま彼に腕を引かれて歩き出そうとしたけれど、ラーナは右足を着いた瞬間、あまりの激痛に身体がガクンと崩れそうになった。びっこを引いた彼女の足元を見て、オクトは何かを察したように「失礼します」と呟いた。
次の瞬間。
ラーナの身体がふわりと浮いた。
「えっ?」
オクトはラーナの身体を軽々と抱き上げ、荷物までさっと肩にかけて運び始めた。
「礼拝堂まで、少しですから」
「す、すみません!!」
「いえ」
大きな彼の腕の中、ラーナは恥ずかしくて身を縮こめていた。
これが、オクト・ハミスとラーナ・ミネルの出会いだった。
……まさかこの一週間後、彼女があんな邪悪で、妖艶な顔で迫ってくるなんて、この時のオクトは知る由もなかったのだ——。




