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グリコピロレート公爵令嬢と魔導書4

 さて、ご存知のように、現実ではお葬式ムードが漂っちゃっているが、魔導書の中のララは至って平和である。大好きな虎の背に乗り疾走している。大変ご機嫌だ。言っちゃあなんだが、現実よりよっぽど平和だ。ララの顔はもうご機嫌に緩みきっている。虎に乗っても景色は相変わらず無限ループだったが、今のララはそんなことはまるで気にしていなかった。全身に当たる風はとても爽やかで、気持ちがいい。虎が跳ねるのに合わせて視線が上下するのが面白い。ララは今、本当の5歳児のように無邪気に笑っていた。いつもの腹に何かを企んだ笑みではなく、演技からの無邪気な笑顔ではなく、本当に心からの笑顔で楽しんでいた。


「ヨーロレイッヒー!」

「ガウッガウッ!」


 ララが叫べば、それに呼応するように虎が吠える。普通の子どもだったならば恐ろしいと震え上がるその雄叫びも、ララには楽しそうな叫び声にしか聞こえない。一人と一匹の心はまるで繋がっているかのごとく、お互いの感情が理解できた。そして相手が楽しければ自分も楽しいと、お互いに引きずられるように感情が伝染していく。主にララから虎へと一方通行の路線だったが。


「ア~アア~!」

「ガ~ウガ~!」


 ララは帰れないという事実を故意に忘れ、浮かれていた。人はそれを現実逃避という。





 夕焼けによって染められた赤い光が窓から降り注ぎ、灯りの灯らない部屋を柔らかい光で包み込んだ。窓枠の形に切り取られた淡い光を頬に受けて、ユウリカ王女は立ち上がる。天盖つきの豪奢なベッドによじ登り、横たわるララの隣に腰を落ち着けた。布団の中からララの手を取りだし、己の手で包み込むように抱いた。ボキボキッ、と、嫌な音が部屋に響く。そんな音は聞こえていないとでもいうように、ユウリカは一心に手を握りしめた。ああ、もう、その、残念ながら……どう見ても複雑骨折です。


「おねがいです。ララをかえしてください」


 何人か前の世話係が教えてくれた、おまじないの儀式。手を組んで、組んだ手を額に押し当てて、祈る。それがお祈りの儀式なのだと。良い子にしていれば願いは聞き遂げられるのだと教えてもらった。その世話係ももういないけれど。良い子でいたかったけれど、たくさんたくさん色んな人に怒られてばかりで、ちっとも良い子にはなれなかったけれど。


「おねがいです。これから、いっぱい、いっぱい、がんぱりますから。いいこになりますから。ララをかえしてください。おねがいです」


 涙でカピカピになった頬を引きつらせながら心の奥底から、引き絞るように声を紡いでいた。


 魔法でどうにかなる問題というのは、本来ならば、具体的に物事を思い浮かべなければならない。より正確に、より緻密に、何がどうしてどうなったのかを思い浮かべ、そこに己の魔力がどう反応したのか具体的に思い浮かべ、本当にその通りになると信じることができなければ魔法は成功しないし、充分な威力が出ない。しかし、ユウリカ王女は特殊だった。ちっとも原理や仕組みを詳細に思い浮かべることなんてしていないのに、その通りになると”信じこむ”だけで魔法が成立してしまう程に魔力の質が良く、また膨大な魔力量を持っていた。そんなユウリカの魔法が、たかが何百年か前の稀代の魔導師が作った魔導書に負けることがあるだろうか? 魔導師タキソールは確かに偉大だった。稀代の魔導師だった。しかし、もう過去の人なのである。今をときめく最恐魔法使い、ユウリカが相手の骨を粉砕するまで力を込めて、心の底から祈ったのである。敵わないわけがないじゃあないか!

 ララのユウリカからの逃避行は1日も経たないうちに終わりが訪れた。他でもない、逃げ続けた王女自らの手によって。




「え、な、何?」


 虎がいきなり急ブレーキをかけたと思ったら、視界が不自然に揺れた。まるでカーテンが波打つかのごとく景色が波打つ。瀬戸内際の波のように、地面が波打つ。虎が天を見上げて唸った。なんだ、上から何かやってくるのか? ララは虎の背中にしっかりとしがみついた。上からごうごうと風が吹き荒れ、木々がなぎ倒される。細い木は地面から引っこ抜かれ、宙を舞った。虎も爪を立たせて地面に必死にしがみついているが、ララの方が先に限界を迎えた。小さい手では踏んばりが効かず、小さい体が空に投げ出される。虎は自分の背からララが離れたのを感知すると直ぐ様飛び上がり、ララの首根っこをくわえた。そのまま下に着地しようとしたところで、一際激しい風が吹く。一人と一匹はそのまま上空へ投げ飛ばされ、上へ上へと吹き荒れる上昇気流に乗ってしまったかのように上へ上へと飛ばされていく。あまりの風の強さに目も口も開けられないまま風が止むのを待った。




 気付いた時、ひどくお腹が空いていることに気付いた。そう言えば虎と戯れることに夢中で昼食も夕食も取っていない。二番目に気付いたことはやたら左手が熱いということだった。じんじんと全体的に熱を持っていて、動かそうとしたらもう駄目だった。ひどい激痛が走り、余りの痛さに思わず目を開けた。すると自分の左手をまるで親の敵とでもいうように握りしめてくれちゃっているユウリカ王女が目に入った。彼女の手に握りしめられた自分の手は本来折れてはいけない方向に折れ曲がり、紫色に変色していた。思わず金切り声をあげて後悔する。金切り声をあげた瞬間、王女はビクッと震え、自分の手により一層負荷がかかった。悲鳴もあげられない程痛くて、生理的な涙がぽろりと頬に流れ落ちる。


(なんなの、なんなの!? 一体何が起こったの!? 何で私は王女に紫色なんて不吉にも程があるくらいに左手を握りしめられなくちゃいけないの!? 意味がわからない! 意味がわからない! 紫色ってなんだよ! 何であらぬ方向に指が折れ曲がってるんたよ!? 何で私がこんな目に遇わなくちゃいけないんだよ! 私の虎はどこだよ!!?)


 ララは自分の可哀想な左手を見ることに夢中で気付かなかったが、ユウリカ王女は大きい瞳を更に大きくさせてララを凝視していた。それ以上大きく目を開けたら目ん玉が飛び出しちゃいますよ、というくらいに。


「ララっ!」

「ゴフッ!」


 ユウリカ王女はララの左手をパッと離し、ララ自体に飛びついた。ぎゅうぎゅうといつものように抱きしめるが、その力はいつもと比べると段違いに弱々しい。ララはいきなり手離され、落ちた衝撃で酷く痛む左手のことを考える片隅でユウリカ王女の奇行に首を傾げた。何だ? 何でこんなに弱々しいんだ?


「よかった……ララ……ほんとうによかったっ……!」

「あん?」


 ユウリカ王女の声は聞いたことがないくらい弱々しく、泣いていたかのように震えていた。何だこいつ。いいからどけよ、とララが思っている時、横から衝撃が訪れララの上からユウリカがあっという間に消え去った。突然の出来事にララが目を白黒させていると、のっそりとベッドの右側から虎が姿を見せる。さっきまで一緒に魔の森にいた、あの虎である。ララはユウリカに抱き締められていた時とはうってかわって目を輝かせた。


「虎!!」

「ガウッ!」


 虎の後ろにはユウリカが転がっている。どうやら虎がヤツを退かせてくれたようだ。褒めて褒めてと言わんばかりに尻尾をこれでもかと振っている虎が可愛くて可愛くて仕方がなく、右手を動かそうとして悶絶した。左手が痛んだのだ。左手は動かそうとしていないにも関わらずこの痛さ! 一体何をしてくれやがったんだこのスットコドッコイはと王女に視線を向ければ、彼女は眠っていた。頬はかなりの量の涙を流したことが分かるくらいカピカピで、髪はボサボサ。ひどい不細工がそこにいた。でも顔は本当に幸せそうで安らかだった。左手を刺激しないように慎重に虎に抱きつきながら、まさかこのガキ死んだんじゃなかろうな? とちょっと……いや、かなりすごく大変嬉しいんだけどちょっぴり困る想像をしてみる。死因何よ? わ、私じゃあないわよ私じゃあ。

 すると部屋の外から随分慌ただしい物音が聞こえてきてララの体が跳ねた。背中に冷や汗が吹き出る。いやいやいや、違うってだから私じゃないんだって。ね?


「ララ!!?」

「ララちゃん!!!」

「ちょっ、あの、違うの私じゃない! 私じゃないよ!!」


 内開きのドアを盛大に開けて雪崩れ込んできたのは両親と兄二人だった。息を切らせ、いつもきっちり決まっている服は崩れてしまっている。あの、だから、ほんとに違うの。殺ったの私じゃないんだって! 多分!!

 皆は虎と戯れている私に一瞬ぎょっとし、すぐにホッとしたような顔になってお母様に至ってはぽろぽろと涙をこぼし始めた。え、待って? 状況説明して誰か。プリーズ?


「意識が戻って本当に良かった……! ああ、ララっ…!!」

「ぎえっ!?」

「ど、どうしたんだララ! どこか怪我しているのか!?」

「いや、ていうかあの虎はなんだ! 怖いぞ!」

「お、お父様! ラ、ララの左手! 紫色に変色してる!」

「キャアアアア!」


 あ、お母様が倒れた。


「ロジン! ロジンを呼んでこい!!」

「はっ、ただいま!」

「うわー!? 虎の影に誰か倒れてる!」

「ユ、ユウリカ王女様じゃないか!!」

「お、おい息してる……か?」

「ウワー! 王女!? ウワー!!」

「良かったなあユウリカ、帰ってこれて。良かったなあ」

「ガウッ!」

「ウワー! 虎が喋ったー!」

「い、医者ー! あと猛獣使い連れてこーい!!」


 カオスだ。

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