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杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

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54/56

虚実の境界線


 一死ランナーなし。八回表の緊迫した盤面。

 東広島ボーイズの3番手として現れた巨躯の左腕、ジョンソンJrの放つ「死角からのムービング」は、一番・大槻の野性を恐怖で完全にすくませていた。左バッターボックスから見れば、球がまるで自分の背中の後ろから放たれるかのような最悪の錯覚。

 だが、次打者として打席へ向かう杉谷拳士は、その長い腕の軌道を冷徹に見つめながら、迷いなく「右打席」へと足を踏み入れた。

左腕サウポーに対して右打席──そこなら、リリースの瞬間が一番よく見える」

 拳士は、ジョンソンJrの極限のクロスステップの構造を、脳内のグリッド(座標)で逆算していた。

 左打者にとっては「死角」となるリリースの瞬間も、右打席から見れば、ジョンソンJrの長い左腕が体から離れていく最も「オープンな視界」へと変わる。敵の最大の武器である「見えにくさ(ディセプション)」を、打席のスイッチ(左右の切り替え)という物理的なハックで無効化しにいったのだ。

 マウンドのジョンソンJrの、感情の消えた瞳がピクリと動く。

 初球。長い四肢がしなり、右打者の内角をえぐるように鋭く変化する2シームが投じられた。手元で急激にベース側へ食い込む魔球。

 ──ビシッ!

「ストライク!」

 拳士のバットは動かない。だが、その瞳は、右打席だからこそ捉えられた「白球の縫い目の回転(ムービングの正体)」を完全にハックしていた。

「手元で2センチ、内側へスライドしている。……見えたぞ、ジョンソン」

 二球目。ジョンソンJrは、今度は外角へ逃げる外向きのカットボールを投じた。右打者の視界から遠ざかる軌道。

 拳士の肉体が、今度は迷いなく始動した。

(インコースの残像で、外の球に踏み込ませないマニュアル──お前たちの計算は、もう全部読み切っている!)

 拳士は、長い四肢から繰り出されるカットボールの「変化の始点」を完璧に捉え、強靭なリストでバットを最短距離でぶつけた。

 ──キィィィィンッ!!!!!

 スタジアムの夜風を切り裂く鋭い金属音。

 放たれた打球は、猛烈なドライブ回転を伴いながら、三塁手のブラウンJrの横を弾丸のような速度で抜けていった。

「サード線、抜けた……っ!?」

 東広島のベンチから悲鳴が上がる。

 打球は、三塁ベースのはるか手前で、完全に白線の「外側ファールゾーン」へと大きく切れていく軌道を描いていた。マウンドのジョンソンJrも、捕手の藍沢も、球のあまりの角度に「ファールだ」と確信し、一瞬だけ視線を緩めた。

 誰もが、ボールがそのまま砂塵の彼方へ消えると思った──。

 しかし、拳士がかけたハックは、打球の「回転数」にまで及んでいた。右打席から外角の球を極限まで巻き込むように叩いたことで、白球には強烈な「逆スピン(スライス)」がかかっていたのだ。

 ファールゾーンの芝生の上で、激しく弾けた白球。

 その瞬間、まるで生き物のように不規則に右へと急カーブを描き、三塁ベースのわずか数ミリ「内側」の白いラインの上へと舞い戻るように滑り込んだ。

 ──バシィィィンッ!

「フェア!!! フェア!!!」

 三塁塁審の腕が、猛烈にグラウンドへと振り下ろされた。

「な、なんだと……!? ファールじゃないのか!?」

 サードのブラウンJrが、慌ててレフト線へと転がっていく白球を追いかける。だが、虚を突かれた東広島のディフェンス陣の一歩目は完全に遅れていた。

 拳士はその隙を見逃さず、俊足を飛ばして一塁を蹴り、一気に二塁ベースへと滑り込んだ。

「セーフ!! 二塁打!!」

 スタジアムが、割れんばかりの歓声とどよめきでひっくり返った。

 二死二塁。

「あはは……あいつ、打球の回転までナックルみたいにコントロールしやがった」

 ベンチの宮﨑が、あきれたように笑いながらフェンスを叩いた。卓人は、古巣の鉄壁のシフトが「ファールに見えるフェア」という、虚実の境界線のハックによって破られた光景に、ただ鳥肌を立てて立ち尽くしていた。

 4対4の同点、八回表一死二塁。

 杉谷拳士の、右打席からの執念のハック。魔境の左腕ジョンソンJrの完璧な空間支配の盤面に、ついに決定的な「風穴」が開いた。打席には、三番・源田亮輔が、再び脱力の構えで向かう。

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