死角の秒針
一死二塁。八回表の緊迫したマウンド。
右打席からの「虚実の二塁打」で出塁した杉谷拳士は、二塁ベース上で息を整えながら、魔境の左腕、ジョンソンJrの肉体構造を完全にロックオンしていた。
(左腕で、あれだけの巨躯。クロスステップの角度を作るために、軸足のタメが異様に長い。……そして、一塁への牽制マニュアルは完璧でも、二塁ランナー(俺)への目配せには、コンマ数秒の『認知の空白』がある)
拳士は、東広島ボーイズの走塁マニュアルのさらに裏側をハックしていた。ジョンソンJrの長い四肢は、一度キャッチャーへ向かって始動すれば、その物理的な質量ゆえに、途中でモーションをキャンセルすることが不可能なのだ。
三番・源田亮輔への初球。
ジョンソンJrの右膝が、ゆったりと胸元へと引き上げられた。その瞬間、拳士のスパイクが爆発的な駆動音を立てて泥を弾いた。
「走った……っ!?」
東広島の捕手・藍沢翼がマスクの奥で目を見開く。
拳士の公式戦、これが「初の盗塁」。
これまで「左右の投げ分け」や「長打力」というバグばかりに目を奪われていた東広島のベンチにとって、拳士がこの終盤の極限状態で足を絡めてくること自体が、最大の計算外だった。
ジョンソンJrの長い左腕がようやく振り下ろされた時には、拳士はすでに三塁ベースの数メートル手前まで肉体を滑り込ませていた。藍沢が必死にサードのブラウンJrへ矢のような送球を送る。
──バシィィィッ!
砂煙がマウンドの光に照らされ、審判の両腕が水平に激しく広がった。
「セーフ!! 盗塁成功!!」
「よっしゃあああ!!」
ベンチの石井拓郎が柵を飛び越えんばかりに叫んだ。拳士の執念の足が、ジョンソンの死角の秒針を完全にハックし、一死三塁という、最も一打が重い盤面を作り上げた。
打席の源田は、一塁ベース上でいつものように飄々とした笑みを浮かべ、バットを軽く構え直した。
(拳士が三塁まで行ってくれた。なら、僕の仕事は一つだけだね)
二球目。ジョンソンJrが焦りから投じた、インコースへ激しく食い込む139キロのカットボール。
源田はその「見えない軌道」に対し、強引に逆らうことなく、バットの面をやや上向きにして最短距離でぶつけた。
──キャンッ!
乾いた音が響き、白球は高く、高くスタジアムの夜空へと舞い上がった。センターの西田竜馬が、打球の滞空時間の長さを測りながら、一歩、二歩と後ろへ下がる。センター深い位置へのフライ。
「西田、捕ってすぐバックホーム!!」藍沢が叫ぶ。
西田がガッチリと打球をグラブに収める。二死。
その瞬間、三塁ベース上で完全に静止していた拳士の右足が、弾かれたようにホームベースへと向かって爆発した。
「バックホーム!!」
西田が体幹を狂わせることなく、本気のマニュアル送球をホームへ投じる。レーザービームのような弾道。白球がノーバウンドで藍沢のミットへと向かう。
だが、拳士の突入のスピードが、王者のセオリーをわずかに凌駕していた。
拳士は、藍沢のブロックの隙間、キャッチャーボックスのわずかな泥の隙間を目がけて、頭から滑り込んだ。ヘッドスライディング。
──ズサァァァッ!!!
藍沢のミットが拳士の背中を叩くのと、拳士の左手がホームプレートの白い角をガッチリと掴んだのは、ほぼ同時。
静寂。そして、球審の大きな両腕が横に広がった。
「セーフ!!! タッチアップ成功、1点!!!」
5対4。
「うおおおおおおおおおおっ!!!!!」
本川中学校のベンチが、地鳴りのような大歓声で完全に沸騰した。宮﨑がヘルメットを空高く放り投げ、サードの石原卓人は、かつて自分がいた東広島の「完璧なディフェンス」が、拳士の足と源田の最低限の仕事によって完全に崩された光景に、全身の鳥肌が止まらなかった。
八回表、本川中学校、ついに絶対王者から泥臭く、しかし完璧なロジックで1ぎぎり、勝ち越し点を奪い取った。
マウンドのジョンソンJrは、長い髪をかき上げながら、初めてその無表情な顔に「焦燥」のノイズを走らせていた。
スタンドの片隅で、まきは古い防具袋を抱きしめたまま、涙で視界を滲ませていた。茂治の古い防具袋が、まるで拳士の歴史的な一歩を祝福するかのように、夜風の中で激しく、誇らしく躍動していた。




