魔境の継投
──互いに一歩も譲らない。
カカ、と硬質な音を立てる神里の義足ブレードも、佐野の研ぎ澄まされた耳も、宮﨑の野性の目も、森下正樹という「王道の引力」の前にあと一本が出ない。
そして、東広島ボーイズの精緻なデータ・システムもまた、杉谷拳士が気まぐれに放つ「ナックルボール」の不確定性の前に、決定的な勝ち越し点を奪えずにいた。
5回、6回、7回──。
電光掲示板に並ぶ冷徹な「0」の羅列。4対4のまま、試合はついに終盤、八回表の本川中学校の攻撃を迎えていた。
拳士の右腕、そして左腕は、すでに限界をとうに超えていた。ナックルを支える指先の握力は摩耗し、爪の付け根からは微かに血が滲んでいる。だが、その瞳だけはマウンドを譲る気など毛頭ないと言わんばかりに冷酷に光っている。
そんな中、東広島ボーイズのベンチが、ふたたび盤面を書き換えに動いた。
「東広島ボーイズ、投手の交代をお知らせします。森下くんに代わりまして、ジョンソンJrくん」
スタジアムが、どよめきから一転して、肌を刺すような冷気へと包まれる。
マウンドへ向かったのは、かつて広島の街に黄金期をもたらし、沢村賞まで獲得した伝説の左腕の血を引く男──クリス・ジョンソンJr。
その体躯は、前田の精密さとも、森下の美しさとも違っていた。異様に長い四肢。マウンドに立っただけで、バッターボックスとの距離が数メートルも縮まったかのような錯覚を抱かせる、圧倒的な空間の支配力。
「……まじかよ。まだあんな『バケモノ』が残ってんのかよ」
ベンチで大槻が引きつった声を上げた。
ジョンソンJrは無表情のまま、長い左腕をゆったりと回した。その投法は、極端なロークォーター。真横に近い角度から、えぐるような軌道で白球が放たれる。
──ビシィィィィン!!!
初球。バッターボックスに立った一番・大槻の脳が、一瞬のバグを起こした。
ボールが、まるで自分の「背中」の後ろから飛び出してきたかのように見えたのだ。左投手の極限のクロスステップから放たれる、138キロのカットボール。白球は打者の手元で、意思を持ったようにインコースへと鋭く変化し、大槻の懐を完全にえぐった。
「ストライク!」
「ひっ……!?」
大槻の野性が、本能的な恐怖で身をすくませる。
ベンチの城島健二が、メガネをガタガタと震わせながらスコアブックの余白に新たな数式を叩きつけた。
「……パワプロのバグ画面じゃないんだぞ。あの角度、左打者にとっては完全に『死角』から球が飛び出してくる。しかも、ただの直球じゃない。すべての球種が微妙に手元で動く『ムービングファスト中等部バージョン』だ。綺麗に芯で捉えること自体が、物理的に不可能に近い」
二球目、外角へ沈むパワーカーブ。三球目、インコースへのツーシーム。
大槻は、その長い四肢から繰り出される「見えない軌道」の前に、手も足も出ずに三球三振。
続いて打席に向かうのは、二番・杉谷拳士。
拳士は左右のバットを握り直しながら、マウンドの巨躯を冷徹にハックしようとした。だが、ジョンソンJrの瞳は、まるで感情を持たない機械のように冷たく、ただ淡々と、次の打者をハックするためのルーティンを繰り返している。
八回表、4対4。
東広島ボーイズが送り込んできた、絶対的な「魔境の左腕」。
本川中学校の快進撃の前に、これまでにない巨大で、そして見えない壁が立ちはだかろうとしていた。




