炭素繊維の弾道
五回表、本川中学校の攻撃。
杉谷拳士の「ナックルボール」という究極の遊び心が、東広島ボーイズの鉄の規律を一時的にマヒさせた。しかし、マウンドに立つ森下正樹の「王道の引力」までは、まだ破れていなかった。
4対4の同点。
森下の上体を大きく反らす美しいオーバースローから放たれる140キロの剛直球、そして天から垂直に落ちる縦のカーブ。この圧倒的な高低差の前に、本川中の下位打線は完全に翻弄されていた。
一死ランナーなし。打席に入ったのは、七番レフト・神里和樹。
森下は初球、外角高めへ球威のある直球をズバッと投げ込んできた。神里のバットが空を切る。ストライク。
(速い。だが、あの縦のカーブを頭の上から落とされたら、俺たちのスイングじゃ捉えきれねえ)
二球目。森下の右腕が縦に振られた。白球がふわりと浮き上がり、神里の目線から足元へと急激に自由落下する。
「くそっ!」
神里は野生の直感だけで、強引に身体を沈めた。下半身を支えるのは、左足の炭素繊維ブレード(義足)。その高反発のバネが、体勢を崩されかけた神里の軸をギリギリのところで踏みとどまらせる。
──ポコン。
完全にタイミングを外されながらも、神里のバットの先端が白球を捉えた。打球は力なく、ファーストの野々村とセカンドの矢野のちょうど真ん中、内野の頭をわずかに超えるだけの、頼りない放物線を描く。
「セカンド、バック! ライト前へ落ちるぞ!」
藍沢の叫び声と同時に、東広島の右翼手・鈴木が猛然と前チャージをかける。セオリー通りなら、ライトフライか、よくて単打のコース。
だが、白球が芝生に弾けるよりも早く、一塁へと向かう神里の足が「爆発」していた。
──キィィィン、キィィィン。
グラウンドの土を掴むブレードの硬質な駆動音が、スタジアムに響き渡る。中学生の次元を遥かに超えた、ピッチ(歩数)の速さ。神里の身体は、まるで一本の矢のように一塁ベースへと突き進んでいた。
ポタリ、とライト前に白球が落ちる。鈴木がスライディングしながら球を拾い上げ、一塁へ送球しようとした──その瞬間には、神里の義足のブレードは、すでに一塁ベースを力強く踏み抜いていた。
「セーフ!!」
足で稼いだ、値千金のポテンヒット。
「よしっ!!」
一塁ベース上で、神里が大きく拳を突き出した。完璧な森下の王道に、神里の「失われた足(異能)」が物理的な速度で食らいついたのだ。
一死一塁。逆転のランナーが出塁し、打席には八番ライト・佐野賢也が入る。
佐野は目を細め、マウンドの森下が放つ「呼吸の音」を静かに聴いていた。拳士のナックルで崩されたリズムを、森下は力技で修正している。その内なる焦りの微音を、佐野の耳は見逃さなかった。
(森下、次は確実にストライクを取りにくる……低い直球だ)
初球。森下が腕を振った瞬間、佐野は迷いなくバットを水平に寝かせた。
──コン。
佐野の「耳」が捉えた通りのコースへ転がった打球は、一塁線へと綺麗に転がっていく。ファーストの野々村がチャージして処理する間に、一塁走者の神里は二塁へと悠々と到達。
送りバント成功。二死ながら、本川中はランナーを得点圏(二塁)へと進めた。
打席には九番センター、高木豊。
二死二塁。一打逆転の緊迫した盤面。だが、ここからが東広島の真のエースの恐ろしさだった。
「二死二塁、バッターは九番。……ここでギアを最大まで上げるよ」
マウンドの森下正樹の瞳から、爽やかさが完全に消え失せた。
初球、この日最速を更新する141キロのストレートが、高木のインコース高めへ。高木のバットが完全に押し込まれる。
二球目、同じフォームから放たれた縦のカーブ。高木の視界から白球が消える。ツーストライク。
そして三球目。森下は再び上体を大きく反らし、天から地へ向かって右腕を叩きつけた。渾身のストレート。
──ズバァァァッ!!!
「ストライク! バッターアウト!! チェンジ!!」
高木のバットは、うなりを上げる直球の前にかすりもせず、空振り三振。
森下正樹は、本川中に傾きかけた流れを、最後は自らの圧倒的な「純粋な力」で強引に引き戻してみせた。
5回表を終えて、スコアは4対4の同点。
神里の足が作ったチャンスを、森下が力でねじ伏せる。意地と異能がぶつかり合う死闘は、いよいよ後半戦へと突入していく。




