不確定性の境界(カオス)
──無回転。
杉谷拳士の右指先から放たれた白球は、カクテル光線を浴びながら、縫い目の赤さえも静止したままホームベースへと向かっていった。
東広島ボーイズの六番セカンド、矢野修司の脳内インジケーターが、その瞬間完全にフリーズした。
前田や森下のボールなら、回転数と軌道から瞬時に最適解のコンマ数秒を導き出せる。だが、この球には計算の分母となる「回転」そのものが存在しない。
ベースの手前、無風のはずのスタジアムの夜風を孕んで、白球が急激に左へとよれた。
(シュート──!?)
矢野の肉体が左へ反応した瞬間、白球はさらに下、そして右へと、生き物のように不規則にステップを踏んだ。
──スカッ。
間の抜けた風切り音を残し、矢野のバットが虚空を裂いた。ドン、と健二が体ごと突っ込むようにして、ミットのウェブの先端で白球を引っ掛ける。
「ス、ストライク! バッターアウト!!」
球審のコールが響く中、矢野はバットを構えた姿勢のまま、文字通りポカーンと口を開けて立ち尽くしていた。
「今、の……何だ? どこで曲がった……?」
理由がわからない。東広島の完璧なマニュアルのどこを検索しても、今の軌道に該当するコードが見つからなかった。
続く七番、守備の達人・梵裕太郎。
どんな変則打球も無駄のないステップで捌く天才ショートは、打席の中で極限まで目を凝らしていた。
(杉谷の奴、何か細工をしていやがる。だが、どれほど鋭く変化しようが、リリースの瞬間の指先を見れば──)
二死ランナーなし。拳士の二球目。
やはり、完全に回転の止まった白球が、ふわりと投げ出された。
梵は今度こそ見極めようと踏み込んだ。だが、ベースの手前で、白球は突如として「自由落下」のようにストンと真下に落ちたかと思えば、直後に浮き上がるような不規則なホップを見せた。
物理法則を無視したかのような、カオスの弾道。
──スッ。
梵のバットは、ボールの影すら踏めずに空を切った。三振。
梵はヘルメットがズレるのも構わず、マウンドの拳士と、健二のミットを交互に見つめ、ただ唖然と呆然自失の表情を浮かべるしかなかった。
「曲がるんじゃない……球が、消えて、別の場所に現れた……?」
東広島ボーイズのスタンド、そしてベンチから、言葉にできないざわめきが広がる。
「おい、何だあの球は! データはどうなってる!」
「ダメです、回転数が『ゼロ』、軌道の予測計算が不可能です!」
二死から、打席には八番、先ほど宮﨑を完璧な王道でねじ伏せた森下正樹が入った。
森下はいつも爽やかな笑顔を完全に消し、冷徹な目で拳士を見据えていた。
「へえ……。システムやマニュアルが通じないなら、最初から『計算できない球』を投げるってわけだ。力の対極にある、究極のバグだね」
森下は140キロの直球を誇るその強靭な体幹をどっしりと据え、どんなブレにも対応できるようバットを短く持った。
だが、今の拳士は、その森下の警戒すらも「最高の遊び」の一部として楽しんでいた。
(いくぞ、森下。これが、俺たちの忘れていた野球だ)
拳士が右腕を振る。三球目。
森下は、ボールの不規則な揺れに対して、自らの圧倒的な動体視力と体幹の力だけで、強引にバットの面を合わせにいった。泥臭く、しかし確実な「王道のハック」。バットの芯が、揺れる白球を捉えかけた──。
その瞬間、白球がベースの直前で、まるで意志を持っているかのように、右上へとカクンと跳ね上がった。
──スカァァッ!!!
森下の強烈なスイングが空を切り、キャッチャー健二のプロテクターにボールが当たって転がる。健二は必死に泥にまみれながら球を拾い上げ、一塁へ送球。アウト。
「ストライク! 三振! チェンジ!!」
矢野、梵、そして森下。
東広島ボーイズが誇る鉄壁の布陣が、拳士が「遊び」で手に入れたナックルボールの前に、三者連続三振という最悪の形で完全に沈黙した。
マウンドを降りる拳士のもとへ、ナインが笑顔で駆け寄る。
「おい拳士! お前まじで正気かよ!」大槻が爆笑しながら頭を叩く。
「捕る僕の身にもなってほしいね」健二が泥を払いながら呆れたように、しかし嬉しそうにメガネを直した。
ベンチの宮﨑は「へっ、おもしろか球ば投げよる」と腕を組み、石原卓人は、データの存在しない魔球がエリートたちを粉砕した光景に、ただ深く息を吐き出していた。
4対4、同点。
データの檻を、純粋な「遊び心」でぶち破った本川中学校。
スタンドの片隅で、深尾まきは茂治の古い防具袋を抱きしめ、夜風の中で本当に楽しそうに笑う拳士の姿に、静かに涙をにじませていた。




