忘却の遊戯(ゲーム)
四回裏、東広島ボーイズの攻撃。
マウンドに上がった杉谷拳士の右腕には、すでに過酷な疲労の鉛がまとわりついていた。
スコアは4対4の同点。東広島のマウンドに君臨した森下正樹の「140キロの王道」は、スタジアムの空気を完全に支配し、本川中学校のナインに目に見えない重圧を与えていた。
バッターボックスには、東広島の六番セカンド、矢野修司。
拳士の左右の投げ分けを冷徹に注視する打者に対し、キャッチャーの城島健二が、右腕からの高速スライダーのサインを出した。
だが、拳士はマウンドの上で首を振った。
二球目、左腕に切り替えてのインコースへの直球。そのサインにも、拳士は静かに首を振る。
(拳士……? 敵のデータ回路は前田から森下へ切り替わったんだ。ここでサインを拒絶して、何を投げる気だ)
健二が不審げにマスクの奥の瞳を細める。
すると、マウンドの拳士は、グラブの中で右手の「人差し指と中指」を不自然に折り曲げ、白球の皮を爪の先で突くようにして固定した。
健二の脳裏に、ある不吉な残像がフラッシュバックする。
あれは大会前の雨の日、ライジングスタジアムの室内練習場の隅で、拳士が「おい健二、これ捕れるか?」と、面白半分に爪を立てて放り投げてきた、あの回転しない不規則な軌道──。
「……ナックルボール!?」
健二は思わずマスクを剥ぎ取り、マウンドの拳士へ向かって駆け出しそうになった。狂気の沙汰だ。
ナックルボール──魔球と称されながらも、現代野球ではその不安定さゆえに捕手も投手もリスクを嫌う、究極のギャンブル。ましてや、公式戦の4対4、一歩も引けない前年王者との死闘の真っ只中である。
健二はマウンドの手前まで進み、声を極限まで押し殺して拳士を睨みつけた。
「正気か、拳士! ナックルなんて、雨の日に室内で『遊び』で放ってただけだろ! 捕球する僕だって完璧には止められない。満塁ホームランで追いついたこの局面で、そんな博打を盤面に配置するなんて、データの自殺行為だ!」
名門をハックし、王者のシステムを狂わせるための「脳」として、健二は拳士の暴走を止めようとした。
だが、拳士は六本指の特注グラブをパチンと叩き、いつもの冷徹な瞳の奥に、かつて誰も見たことのない「少年の灯火」を揺らめかせた。
「……健二。俺たちは、忘れていたのかもしれない」
「何を言っている」
「名門のシステムをハックするとか、エリートの檻を破るとか、そんな数式の計算ばっかり頭に詰めてさ」
拳士は、不格好に爪を立てた白球を、愛おしそうにグラブの中で転がした。
「俺たちは忘れていたのかもしれない。……野球を、楽しむことを」
「……っ」
健二が息を呑む。
吹き溜まりの本川中で、勝ち上がるために必死に構築してきた「異能のシステム」。だが、その根底にあったのは、かつて阿賀の夜のスタジアムで、杉谷茂治の背中を見て胸を躍らせた、あの純粋な衝動だったはずだ。
勝つために機械になるんじゃない。王者の完璧なシステムを、俺たちの「最高の遊び場」で狂わせるために、ここにいる。
健二は呆れたように自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと定位置へと戻った。マスクを被り、泥だらけのミットをド真ん中に構える。
(やれやれ。僕の解析眼も、お前のその『楽しむ野生』にだけは、一生追いつけそうにないな)
四回裏、一死。
杉谷拳士が、右腕をゆったりと振り抜いた。
放たれた白球は、カクテル光線の真ん中で、回転を完全に停止させたまま──まるで夜風に弄ばれる蝶のように、予測不能の軌道で不規則に揺れ始めた。




