王道の引力
4対4の同点。城島健二の「敬遠球満塁ホームラン」という理不尽極まりない一撃によって、スタジアムの熱気は最高潮に達していた。前田健太郎をマウンドから引きずり下ろした本川中学校(広島メープルス第2チーム)の勢いは、もはや誰にも止められない猛嵐のように見えた。
しかし、東広島ボーイズの2番手としてマウンドに上がった森下正樹は、その嵐の真ん中で、驚くほど静かに、そして深く呼吸を整えていた。
二死ランナーなし。打席には、先ほど鋭いハックを見せた五番サード・宮﨑俊平が、再び獰猛な笑みを浮かべてバットを構える。
「おい、新しいピッチャー。前田のシステムは壊れたぞ。お前の中の機械も、まとめて叩き割ってやる」
宮﨑の挑発に対し、森下はただ小さく微笑むだけだった。
走者なし。森下はノーワインドアップの構えから、ゆったりとモーションを起こした。弓のしなりのように上体を大きく反らし、そこから一気の加速で、天から地へ向かって右腕を垂直に投げ下ろす。完璧なオーバースロー。
──ドガァァァッ!!!
ミットが破裂するかのような重低音が響いた。内角高め、宮﨑の胸元を正確に突いたストレート。電光掲示板の数字が、スタジアムを驚愕させる。
【 140 km/h 】
「中学生が、大台に乗せやがった……!」
ベンチの石原卓人が思わず息を呑む。前田の精密機械のような野球とは違う。森下正樹が持つのは、圧倒的な肉体の体幹から生み出される「純粋な力(王道)」のシステムだった。
ツーストライクと一気に追い込まれた宮﨑の目が、鋭く細められる。
(速い。だが、ストレートの軌道なら、俺の手首の力(野生)で押し込める……!)
三球目。森下は再び、全く同じ上体を反らすフォームから腕を振った。
宮﨑の肉体が、140キロの直球の軌道に合わせて爆発的に始動する。
──ストッ。
ハックを完了したはずの宮﨑のバットが、完全に空を切った。
白球は、宮﨑の目の前で、まるで天から垂直に自由落下するかのような、果てしない落差で足元へと消え去っていた。
森下の代名詞──縦のカーブ。
あまりの緩急と落差に、宮﨑は体勢を崩され、その場に膝をついた。球審の鋭い手が空を裂く。
「ストライク! バッターアウト!!」
一瞬の静寂の後、東広島ベンチから割れんばかりの歓声が沸き起こった。
城島の一撃で完全に崩壊したはずの東広島の盤面が、森下正樹という「王道の引力」によって、わずか数球で完全に修復された瞬間だった。
森下はマウンドを降りながら、帽子を取って爽やかに汗を拭った。その瞳には、本川中の不規則な動き(バグ)への恐怖など微塵もなかった。
「どんなに面白い計算をされてもさ。上から力で叩き潰せば、数式なんて関係ないよね」
4対4。4回表、本川中の猛反撃はここで食い止められた。
ベンチに戻った宮﨑は、悔しそうにグラブを叩きつけ、佐賀弁で呻いた。
「クソが……あいつのカーブ、頭の上から足元まで、軌道が縦一本に消えよる。データの読みようがなか……!」
マウンドへ向かう杉谷拳士は、六本指の特注グラブをパチンと叩いた。右腕の奥に籠もる熱は、すでに限界を知らせる痛みに変わりつつある。だが、拳士の目は、かつてないほど冷酷に澄み渡っていた。
「前田が『盾』なら、あの森下は『矛』か。……面白い」
スタンドでは、まきが古い防具袋を抱きしめたまま、マウンドの森下が放つ圧倒的な王者の威圧感に息を呑んでいた。
試合は4対4の同点。しかし、本当の地獄の消耗戦が、ここから始まろうとしていた。




