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杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

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45/56

超克のアルゴリズム


 四回表、本川中学校の攻撃。スコアは0対4。

 石原卓人が自らのプライドを完全に捨てて提示した「泥仕合の逆ハック作戦」。東広島ボーイズの完璧な条件反射セオリーを、合理性を放棄したノイズで機能停止に追い込む──それが、この檻を破るための唯一の銃弾のはずだった。

 先頭打者は、野性の塊、九番ファースト・大槻祐太朗。

 大槻はバッターボックスに入るや否や、卓人の指示通り、異様な行動に出た。前田健太郎がセットポジションに入る前に、バットをホームベース上で激しく上下に振り回し、次いで極端な前傾姿勢でセーフティバントの構えを取った。

「なんだ、あいつは……?」

 東広島のキャッチャー・藍沢翼が眉をひそめる。

 大槻は前田が足を上げた瞬間、今度はバットを引いて大振りの構えに変え、さらにベース上で足を踏み鳴らした。マニュアルのどこにも存在しない、奇々怪々な生体ノイズ。

 だが、マウンドの絶対的エース・前田健太郎の瞳は、微塵も濁っていなかった。

(──ノイズを検知。思考回路の同調を拒絶。セオリーを『出力の最大化』へ修正)

 前田は、大槻の不規則な動きを「見る」ことを脳内で完全に遮断した。彼がフォーカスしたのは、藍沢のミットという「静止した空間」のみ。打者がどれほど踊ろうが、空間の座標は変わらない。

 ──ビシィィィッ!!!

 放たれた138キロの直球は、大槻の狂った構えを嘲笑うかのように、外角低めの極限へと突き刺さった。

「ストライク!」

 大槻が「ゲッ」と顔をしかめる。二球目、三球目、大槻はさらに激しく動き回ったが、前田のロボットのような精密なリリースは一ミリもブレなかった。一度もバットを振らせてもらえないまま、大槻は三球三振に倒れる。一死。

「……ダメだ。前田のやつ、ノイズを完全に『無視する』っていうマニュアルの修正を、その場でやりやがった」

 ベンチで卓人が戦慄に目を見開いた。王者のシステムは、バグを前にして混乱するどころか、バグをただの「無駄なデータ」として切り捨てる処理フィルタリングを完了させていた。

 しかし、本川中の本命はここからだった。

「タイム! 代打、宮﨑!」

 衣笠総監督の声に応え、目の奥にドス黒い闘志を宿した宮﨑俊平が、ゆっくりと打席へ向かう。

「おい、エリート」

 宮﨑はすれ違いざま、卓人を振り返らずに低く吐き捨てた。

「お前の泥臭い作戦ハックは通じんどったが……敵が機械みたいに冷徹になっとるなら、好都合たい。その冷たい鉄のつら、力ずくで叩き割ってやる」

 一死ランナーなし。宮﨑が打席に入る。

 前田の瞳が、ふたたび冷徹に宮﨑をロックした。先ほど二塁打を放った「野生の怪物」。

 藍沢のサインは、宮﨑の視覚をハックしたあの超高速チェンジアップ。前田の右腕がしなり、フォークと全く同じ軌道から白球が放たれた。

 宮﨑の目がその「偽の予兆」を捉える。だが、今の宮﨑は先ほどまでの宮﨑ではなかった。卓人の言葉によって、敵が「罠を仕掛けている」という前提を脳に叩き込んでいた。

(チェンジアップ……そこたい!!)

 宮﨑は、変化のブレーキがかかるコンマ数秒、自らのスイングの始動を「肉体の意志」で強制的に遅らせた。野生の直感に、エリートの論理(罠の予測)が融合した、ハイブリッドのハック。

 バットが、完璧なタイミングで白球の軌道を捉える──。

 しかし。

 キィン、という鈍い音がスタジアムに響いた。

「なに……!?」

 宮﨑の腕に伝わったのは、凄まじい「重み」だった。

 白球は、チェンジアップではなかった。宮﨑のタイミングの遅れ(待ち)をさらに先読みしていたかのように、前田が投じたのは、指先を限界まで引っ掛けた「シュート気味にインコースへ食い込む超剛球」だったのだ。

 手元で激しく芯を外された打球は、力なく一塁手の野々村のグラブへと収まった。ファーストゴロ。二死。

「バカな……。宮﨑の『待ちの修正』すら、前田は投げた瞬間に見切って指先をコントロールしたのか……!?」

 健二のメガネがガタガタと震えた。

 前田健太郎は、帽子を取り、額の汗を無造作に拭った。その顔には、本川中学校のあらゆるハック、あらゆる泥臭い奇襲をも完全に「想定内」として超克した、王者の絶対的な冷酷さが張り付いていた。

「お前たちの『バグ』は、もう僕たちのシステムを動かせない」

 マウンドから見下ろす前田の視線が、そう語っているようだった。

 二死ランナーなし。スコアは0対4のまま。

 本川中学校のベンチは、今度こそ逃げ場のない、完璧な「鉄の檻」の冷たさに凍りつこうとしていた。

 スタンドの片隅で、まきは震える手で古い防具袋を抱きしめた。カクテル光線に照らされたグラウンドが、あまりに遠く、あまりに非情に見えた。

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