牙を剥くデータ
0対4。
ロサリオJrの放った無慈悲なスリーランホームランの残響が、ライジングスタジアムの夜空に冷たく溶けていく。
三回裏、東広島ボーイズに奪われた四点は、本川中学校(広島メープルス第2チーム)のナインに、これまでにない致命的な亀裂をもたらしていた。
「だけん言うたろが!!」
ベンチに戻るや否や、宮﨑俊平がパイプ椅子を怒鳴りつけるように蹴り飛ばした。むき出しの佐賀弁が、通夜のように静まり返る部室へと響き渡る。
「エリートのデータなんぞに頼るけん、肝心なところで力負けするとたい! 杉谷も杉谷だ、ド真ん中にスッポ抜けやがって!」
「宮﨑、やめろ」健二が低く制するが、不協和音は止まらない。
「やめられるか! 泥水すすって3連勝してきた俺たちの野球ば、こんな綺麗なだけのデータで生殺しにされてたまるかってんだ!」
ナインの視線が、サードの守備に入った新入部員・石原卓人へと突き刺さる。かつての古巣のデータを持ち込みながら、結果として大量失点を招いたエリート。卓人は帽子を目深に被り、血が滲むほど拳を握りしめて震えていた。
その時、マウンドから最後に戻ってきた一番・杉谷拳士が、六本指の特注グラブをベンチに無造作に放り投げた。その右手の手首は、過呼吸のような微かな震えを帯びている。
「……終わってない」
拳士の冷徹な声が、ベンチの空気を微かに震わせた。
「4点差。まだハックの余地はある」
その言葉に、卓人がゆっくりと顔を上げた。エリートシニアのトップを走り、完璧な合理主義の中で育ってきた少年の瞳から、初めて「綺麗さ」が消えていた。そこにあるのは、泥舟に飛び込んでまで勝利を渇望する、剥き出しの執念だった。
「……城島」
卓人が一歩前へ出た。その声は低く、掠れていた。
「東広島のシステムは、完璧だ。僕が教えたデータ通りにブラウンをフライに打ち取っても、西田の足とロサリオのパワーが、その計算の『外側』から力ずくで盤面を上書きしてくる」
卓人は健二の前に歩み寄り、スコアブックの上へ、自らの手でぐしゃぐしゃに丸めた東広島の配球マニュアルの紙を叩きつけた。
「プライドは捨てる。僕の綺麗なデータじゃ、あいつらの檻は破れない。……でも、あいつらのシステムには、僕が設計したからこそ分かる『物理的な欠陥』が一つだけある」
「欠陥?」健二がメガネの奥の瞳を細める。
「東広島の全選手に徹底されているマニュアル──それは『次の最も確率の高いセオリーへ、コンマ数秒早く肉体を始動させる』ことだ。彼らは頭で考える前に、確率のデータへ体が勝手に反応するよう条件付けられている」
卓人は、ベンチの隅でバットを磨いている野性児・大槻、そして不満げにそっぽを向いている宮﨑を交互に見つめた。
「つまり、彼らは『セオリーの対極にある、一番不格好で、一番あり得ない泥仕合』を目の前に突きつけられた時、脳の処理が一瞬だけオーバーフロー(機能停止)を起こす。……次の4回表、僕たちの攻撃。大槻と宮﨑の『データ化できない理不尽』を、あえて同時に盤面に投入してくれ」
卓人が提案したのは、彼が最も嫌悪してきたはずの、合理性を完全に放棄した「泥臭い攪乱作戦」だった。
「大槻は次の打席、バットを一度も振るな。全球、セーフティバントの構えだけでベース上を激しく動き回って前田の視界をバグらせろ。そして宮﨑──」
卓人は宮﨑の胸元をまっすぐに見据えた。
「総監督、次の回、僕の代わりに宮﨑を代打に出してください。あいつの野生なら、前田が困惑して投げる『マニュアル外のクソボール』を、力ずくでスタンドへ叩き込めるはずだ」
エリートが、自身のデータを否定し、本川中の「バグ」に全てを賭けると宣言したのだ。
宮﨑は呆気にとられたように卓人の顔を見つめ、やがて、獰猛な笑みをその分厚い唇に浮かべた。
「……へっ。言うてくれるじゃんか、エリートのくせに」
拳士はゆっくりと打席用のヘルメットを被り、左右のバットを一本ずつ手に取った。
「健二、サインを書き換えろ」
「分かっているよ」健二がニヤリと笑う。「僕たちの不協和音を、東広島の脳を破壊するノイズに変えよう」
4点差の絶望。しかし、本川中学校のシステムは死んでいなかった。石原卓人という新たな毒を飲み込み、より歪で、より凶暴な「怪物軍団」へと再起動を果たそうとしていた。
スタンドでは、まきが古い防具袋の紐を両手で強く握りしめ、夜風の中で反撃の時をじっと待っていた。四回表、本川中学校の反撃が始まる。




