極限の解析眼
二死ランナーなし。スコアは0対4。
大槻の奇策も通じず、宮﨑のハイブリッド・ハックすらも前田健太郎の超克アルゴリズムの前に封殺された。完璧にデバッグ(修正)された本川中学校の攻撃盤面。絶望の鉄格子の前で、二番・杉谷拳士がゆっくりと打席へ向かった。
拳士が選択したのは「右打席」だった。
広陵戦で左翼席の奥深くへ力技のソロ弾を叩き込んだ打席。だが、マウンドの前田の瞳には、一切の揺らぎはなかった。
(右打席……確率データは頭に入っている。外角低めの出し入れで、完全にシャットダウンする)
プレイボール。前田の右腕がしなり、138キロの直球が外角の極限へ走る。
──ビシッ。
「ストライク!」
拳士は微動だにしない。ただ、そのオッズ(確率)を測るような冷徹な瞳で、前田の指先を凝視していた。
(敵は俺をロボットのように機械的に処理しにきている。なら、こちらも機械になればいい。データとデータの、純粋な演算勝負だ)
二球目、同じ軌道からベース手前で鋭く逃げる高速スライダー。広陵の戒能を絶望させた魔球の、東広島バージョンだ。
拳士のバットは動かない。ベースのわずか数ミリ外側を通過する白球。
「ボール!」
三球目、インコース高めへ急激に突き刺さるカットボール。拳士の胸元をえぐるような危険な球。しかし、拳士は首を一センチ後ろに引くだけで、これも冷酷に見送った。
「ボール!」
「……杉谷のやつ、全部見えてやがる」
ベンチで健二がメガネの位置を直しながら、驚愕を押し殺した声を漏らした。
「前田の制球は一寸の狂いもない。だからこそ、拳士は『ボール球になる軌道』を、脳内のグリッド(座標)で完全に識別しているんだ」
四球目、チェンジアップをファールで粘り、五球目は低めのフォークを見極める。
一球ごとに、スタジアムの空気がじわり、じわりと張り詰めていく。完璧な機械(前田)と、完璧な解析眼(拳士)の、ミリ単位の削り合い。
カウントスリーボールツーストライク。フルカウント。
マウンドの前田の額から、一筋の汗が流れ落ちた。完璧にデバッグしたはずの打者が、自分の投球アルゴリズムの底を静かに覗き込んでいる──その事実に、王者の右腕に初めてかすかな「重圧」という名のノイズが走る。
藍沢のサインは、この日最速のインコース・ストレート。
前田が咆哮とともに右腕を振り抜いた。白球がカクテル光線を切り裂き、拳士のインコースへと襲いかかる。完璧なコース、完璧な球威。
だが、フルカウントの極限状態、拳士の脳内盤面には、前田のリリースポイントが完全に「固定」されて映っていた。
「……そこだ」
──ドゴォォォォォンッ!!!!!
静寂を切り裂く、本日一番の重低音。
右打席の拳士が、前田の140キロ近い直球の威力をそのまま巻き込むように、強靭なリストでバットを完璧に一閃させた。
放たれた白球は、凄まじい弾道を描く弾丸ライナーとなって、左中間へと向かって夜空を突き抜けた。
レフトのロサリオJr、センターの西田が猛然と背走する。しかし、打球の推進力は全く衰えない。
バシィィィィンッ!!!!!
スタジアムの最深部、左中間フェンスのコンクリート部分に、白球が強烈な音を立てて直撃した。弾け飛ぶ砂埃。
拳士は感情を一切表に出さず、鋭い足取りで二塁ベースへと滑り込んだ。二塁打(フェンス直撃弾)。
「よっしゃあああああ!!!」
ベンチの宮﨑が、卓人の肩を激しく揺さぶりながら叫んだ。
「見たかエリート! 機械がなんだ! 杉谷のハックが、あの完璧なエースをぶち破ったぞ!」
二塁ベース上で立ち上がった拳士は、ゆっくりと泥を払い、マウンドの前田を冷徹に見据えた。
スコアは0対4のまま。しかし、前田の完璧なアルゴリズムは、拳士の「極限の見極め」によって、確実にその強固な外殻を破壊され始めていた。
スタンドでは、まきが胸の前で合わせていた手をそっと解き、茂治の古い防具袋が、反撃の狼煙を祝うかのように夜風の中で激しく、誇らしく揺れていた。




