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杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

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鉄の檻


 二死二塁。宮﨑俊平の放った痛烈なフェンス直撃の二塁打は、間違いなく東広島ボーイズの完璧な盤面を揺るがした、はずだった。

 続く六番・源田亮輔の打席。東広島のエース・前田健太郎は、マウンド上で息一つ乱していなかった。捕手・藍沢翼のサインに小さく頷くと、外角低めへ一寸の狂いもないチェンジアップを投じ、源田をあっさりとファーストゴロに打ち取った。

 三アウト。先制の好機を逃した本川中学校のナインがベンチへ戻る。

 だが、不気味だったのは東広島のベンチだった。彼らの顔に焦りは一切なかった。それどころか、藍沢をはじめとする内野陣は、タブレット端末とスコアブックを囲み、先ほどの宮﨑の打席と守備の映像を恐ろしい速度で「処理」していた。

「……ハック完了だ」

 東広島の監督が、冷徹に呟いた。

 彼らのシステムは、ただ過去のデータを参照するだけのものではない。試合中に発生した「想定外のバグ(野生)」すらも、次のイニングには新たな数式として組み込み、システムの中へ閉じ込める──自己進化型のアナリティクス集団。それが王者の真の姿だった。

 三回表、本川中学校の攻撃。

 打順は七番・高木豊から始まった。広陵戦で反撃の狼煙を上げた高木は、気合を内に秘めて右打席に入る。

 前田の初球。インコースをえぐるようなストレート。高木は宮﨑の二塁打の残像から、「東広島の制球がわずかに甘くなっている」と踏んで、一気に出合い頭を叩きにいった。

 ──カツン。

 しかし、打球は力ないサードゴロに終わる。ブラウンJrが、まるでそこに球が転がってくることが分かっていたかのような完璧なポジショニングで処理した。一死。

 続く八番・佐野賢也。

 佐野は目を細め、前田の指先が放つ音を聴こうとした。だが、異変に気づく。

(……音が、消えた?)

 前田のフォームに変化はない。しかし、リリースの一瞬、グラブやユニフォームの擦れる微かな「摩擦音」のパターンが、先ほどまでと完全に変わっていた。東広島のバッテリーは、佐野の「耳」の存在を警戒し、前田の投球モーション全体の音響特性すらも、マニュアルで強制的に修正サイレンス・ハックしてきたのだ。

 音による軌道の先読みを奪われた佐野は、外角の鋭いカットボールに見逃し三振。二死。

「……何が起きている」

 ベンチの石原卓人が、戦慄のあまり立ち上がった。

「あいつら、宮﨑の『予兆を捉える目』のデータから、僕たちのナイン全体の『視覚・聴覚の依存度』を逆算したんだ。宮﨑が前田の手首の角度を見ていたなら、その手首の角度をあえて『偽装ダミー』として使い、ナイン全体の感覚を狂わせる配球に切り替えた……!」

 二死ランナーなし。打席には、先ほど絶対王者に風穴を開けた張本人──五番・宮﨑俊平。

「宮﨑、気をつけろ! 敵は君の『ハック』をもう利用している!」

 健二がベンチから叫ぶ。

 宮﨑はふんと鼻で笑い、バットを威嚇するように構えた。

「利用されたなら、その上を叩き潰すだけだ」

 前田の初球。先ほど宮﨑が二塁打を放ったのと全く同じ、リリースの一瞬に「指先に力が入る」フォームから、縦のフォークが投じられた。

(そこだ……!)

 宮﨑の野生が反応し、身体が完璧なすくい上げの軌道へと動く。

 だが、ベースの手前で、白球は「落ちなかった」。

 それは、フォークと同じ指の力の入れ方から放たれた、限界まで回転数を抑えた「超高速のチェンジアップ」だった。宮﨑の視覚を騙すために用意された、冷徹な罠。

 ──スカッ。

 宮﨑の強烈なスイングが、完全に空を切った。体勢を崩され、膝が土につく。

「ストライク!」

「チッ……!」

 宮﨑が打席の中で歯を剥き出しにする。

 二球目、三球目。東広島のバッテリーは、宮﨑の鋭い五感の裏をかくように、精密に「偽の予兆」を混ぜ込んだ配球を徹底した。野生の直感を逆手に取られ、五感を鉄の檻に閉じ込められた怪物は、もがけばもがくほど、その緻密な計算の沼へと沈んでいく。

 四球目。外角低め、極限のコースへ逃げるスライダー。宮﨑のバットは、完全に翻弄されたまま空振りを喫した。

「ストライク! バッターアウト!!」

 三者凡退。

 本川中の誇る「野生のハック」は、わずか一イニングで東広島ボーイズのシステムへと吸収され、完全に封じ込められてしまった。

 マウンドを降りる前田健太郎は、相変わらず表情を変えない。その瞳は、「バグの駆除デバッグは完了した」とでも言うように冷たく澄んでいた。

 スコアは0対0。

 本川中学校のベンチに、かつてない重苦しい沈黙が広がる。拳士はグラブの中で右手の指先を強く押し潰した。爪が食い込み、微かな痛みが走る。

「……これが、本物のシステムの力か」

 健二のメガネの奥の瞳が、激しく揺れていた。

 スタンドでは、深尾まきが胸の前で両手を固く結び、祈るようにグラウンドを見つめていた。隣の古い防具袋は、王者が放つ圧倒的な威圧感の前に、ただ静まり返る夜風に怯えるように震えていた。

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