不協和音の歯車
東広島ボーイズとの決戦まで、あと一週間。
広陵学園を破った本川中学校(広島メープルス第2チーム)のグラウンドは、熱気と、そして未知の緊張感に包まれていた。
ライジングスタジアムのサブグラウンド。そのマウンドに杉谷拳士が立ち、バッターボックスには新入部員・石原卓人が立っていた。シートバッティングによる、事実上の「洗礼」だった。
「来い、杉谷」
卓人はエリートシニアで磨き上げられた完璧なスクエアスタンスでバットを構えた。父親である石原二軍監督から叩き込まれた基本、そして東広島ボーイズで培った「投手の投球動作の完全な言語化」。卓人の脳内には、拳士のあらゆるデータが叩き込まれていた。
拳士は無表情のまま、グラブの中で白球の縫い目を押し潰した。
初球。拳士は左腕を選択した。サイドスローとスリークォーターの中間から、郭コーチ直伝の高速スライダーを投じる。
(軌道は頭に入っている。ベース手前でインコースへ直角に折れる──)
卓人は最短距離でバットを振り抜いた。完璧なタイミング。完璧なスイング軌道。
──スカッ。
鋭い風切り音を残し、バットが虚空を裂いた。ドン、と健二のミットに白球が収まる。
「ストライク」
「なっ……!?」
卓人の美しい眉が跳ね上がった。タイミングは合っていた。データ通りの変化だった。なのに、バットの数センチ下を白球が通過していた。
「無駄だよ、石原」
キャッチャーの健二がミットからボールを返しながら、冷徹に言った。
「君の頭にあるのは、先週の広陵戦のデータだろ? 拳士の指先は、今日の浜風の重さと、君の踏み込みの癖に合わせて、曲がる瞬間の『回転数』を数パーセント狂わせている。教科書通りのスイングじゃ、一生当たらない」
拳士は何も言わない。二球目、今度は右腕から、全く同じフォームの高低差で高速スライダーを外角へ滑り込ませた。
左右の脳の切り替えを強要される、本川中の「バグ」。卓人は身体を泳がされ、不格好な空振り三振を喫した。
壁にぶつかったのは、打撃だけではなかった。
続くシートノック。サードの守備位置に入った卓人は、本川中の「非言語的な連携」のスピードに、完全に置き去りにされた。
カキィン! 郭コーチのノックが左中間へ上がる。
「神里、フェンス際!」
ライトの佐野が目を細めたまま叫ぶ。打球を見ることなく、その音だけで落下点を特定した佐野の指示。レフトの神里がブレード(義足)のバネを爆発させて猛烈な背走を見せ、フェンス際でジャンピングキャッチ。
「セカンド、石井! 拳士のカバーに入れ!」
神里からの返球が内野へ戻る。その瞬間、サードの卓人は、自分の横をすり抜けていくランナー(大槻)を刺すための指示を出そうと声を張り上げかけた。
「カットは僕が──」
だが、卓人が言葉を発するより早く、ショートの源田がすでに飄々とした動作でカットポジションに入り、捕球した瞬間にはノーステップで一塁へ矢のような送球を送っていた。大槻が間一髪でアウトになる。
一連の動きの中で、本川中のナインは「セオリー」の声をほとんど掛け合っていなかった。
佐野の耳が聴き、神里の足が跳び、源田の感覚が補完する。
東広島ボーイズで「声の連携」と「マニュアル通りのカバーリング」を徹底されてきた卓人にとって、彼らの動きはあまりに不規則で、あまりに早すぎた。
「……なんなんだ、このチームは」
卓人はサウンドの定位置で、自分のグラブを見つめたまま立ち尽くした。
「セオリーが全部壊れている。なのに、誰も迷っていない……」
ベンチに戻った卓人の前に、同じサードの宮﨑がゆっくりと歩み寄ってきた。
「おい、エリート」
宮﨑はヘルメットを小突くようにして、卓人を睨みつけた。
「お前の綺麗な野球は、東広島に置いてきな。ここでは、自分の五感をハックできねえ奴は、ただの『お荷物』だ」
卓人は唇を噛み締め、拳を震わせた。
完璧なデータと合理主義の世界でトップを走ってきたプライドが、この吹き溜まりの怪物たちの前で、粉々に砕け散ろうとしていた。
マウンドの拳士は、そんな卓人の背中を冷徹に見つめながら、グラブをパチンと叩いた。
(石原卓人。お前がただの綺麗なパーツなら、このシステムには噛み合わない。……東広島を壊すための『毒』に、なってみせろ)
スタンドの入口では、まきが新しい弁当箱を抱え、夜風に揺れる茂治の古い防具袋の隣で、静かにグラウンドを見つめていた。
前年王者との決戦まで、あと一週間。本川中学校は、内なる不協和音を抱えたまま、最大の決戦へと突き進んでいく。




