呼び水
名門・広陵学園中等部を6対2で破る大金星。
公式戦3連勝を飾った本川中学校(広島メープルス第2チーム)の快進撃は、広島の少年野球界にとって、もはや一過性の奇跡ではなく、明確な「地殻変動」として受け止められていた。
その噂は、居場所を失っていた隠れた天才たちや、既存の硬直したシステムに疑問を抱いていた少年たちの心を激しく揺さぶった。
「……おい健二、これ全部入団希望者の書類か?」
朝練の前、部室で大槻が目を丸くして黒板の下に積まれた紙の山を指差した。
健二はメガネの位置を直しながら、一枚一枚の書類に目を通していた。
「ああ。広陵戦の後から急増したんだ。僕たちの野球が、広島中の『はぐれ者』たちの呼び水になったらしい」
ベンチでグラブを磨いていた宮﨑が、ふんと鼻で笑った。
「吹き溜まりに人が集まって、ただの泥水にならなきゃいいがな」
「その心配はなさそうだ。……特に、この一枚に関してはね」
健二が引き抜いた書類の名前を見て、拳士の右手の指先がぴくりと動いた。
『石原卓人』
その名字に、部室の空気が一瞬で張り詰めた。
「石原……って、あのライジングドラゴンズの二軍監督の?」石井が声を裏返らせる。
「そうだ」
部室のドアが開き、郭コーチが不敵な笑みを浮かべて入ってきた。その背後から、一人の少年が静かに足を踏み入れる。
背は高く、無駄のない引き締まった体躯。何より目を引いたのは、その佇まいに宿る圧倒的な「野球のエリート」としての冷徹なオーラだった。父親である石原監督譲りの、鋭く、すべてを見透かすような切れ味のある瞳。
「石原卓人です」
少年は拳士をまっすぐに見据え、淀みのない声で言った。
「東広島ボーイズのシニアから、籍を移してきました」
ナインに衝撃が走る。次の対戦相手である、前年王者「東広島ボーイズ」。その主力メンバーが、このタイミングで自ら泥舟に見えた本川中へ飛び込んできたのだ。
「なぜここに来た」
拳士はバットを握ったまま、打席に立つときと同じ冷徹な眼差しで石原の息子を見つめた。
「東広島のシステムじゃ、杉谷茂治の息子には勝てないと思ったからだ」
卓人は表情一つ変えずに言い放った。
「あそこは完璧なデータと合理主義のチームだ。でも、親父(二軍監督)が言っていた。お前たちの野球はルールを壊す『バグ』だってな。僕は、エリートの温室で綺麗な数字を残すために野球をやってるんじゃない。プロの、その上の世界で通用する『本物の怪物』になりたいんだ」
卓人の目は、拳士の六本指のグラブ、そして外野の隅で静かに風の音を聴いている佐野、義足のブレードを確かめている神里へと向けられた。
「僕のポジションはサード、もしくはピッチャーだ。お前たちのシステムに、僕という『最高級のパーツ』を組み込む気はないか?」
「サードだと?」
宮﨑がゆっくりと立ち上がり、卓人の前に立ちはだかった。二人の怪物の視線が、火花を散らして衝突する。
拳士はしばらく黙っていたが、グラブをパチンと叩いてマウンドの方向へ歩き出した。
「郭さん、入団テストはどうしますか」
「必要ない。こいつの実力はワシが一番よく知っとる。……だが拳士、システムに新しい歯車が入るということは、これまでの噛み合わせが変わるということだぞ」
拳士は振り返らずに言った。
「変わるんじゃない。拡張するんだ。……東広島ボーイズの出方を、こいつの内側からハックする」
スタンドの入口では、まきが新入部員の姿を静かに見守っていた。両手に抱えた弁当箱が、朝の光を浴びて光る。
前年王者との一戦を前に、本川中学校はさらなる「異能」を手に入れた。しかしそれは、チーム内に新たな歪みと競争を生む、劇薬でもあった。




