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杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

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35/56

怪物の分水嶺


 八回裏を無失点で切り抜け、試合はついに最終回、九回裏の守備を迎えていた。

 スコアは6対2。本川中学校が名門・広陵学園中等部を4点リードという、誰もが目を疑う盤面が電光掲示板に刻まれていた。

 二死ランナーなし。マウンドの杉谷拳士は、すでに百三十球を超えていた。左右の両腕には、鉄板を埋め込まれたような鈍い重みがのしかかっている。

 最後のバッターボックスには、第二打席で拳士の予備動作を最初に見抜いたショート、戒能朶一が立っていた。戒能の目はまだ死んでいない。名門の意地を全てバットに込め、拳士を睨みつけていた。

 健二がミットを構え、サインを出す。

(最後だ、拳士。一番自信のある球をくれ)

 拳士は頷いた。選んだのは「右腕」だった。

 セットポジションから、地を這うような低い重心のフォームへ。サイドスローとスリークォーターの中間。

 拳士の右指先が、白球の縫い目を限界まで押し潰し、引き裂いた。

 ──ビシィィィィン!!!

 放たれた白球は、右打者である戒能の外角高めへ、凄まじい勢いで突き進む。戒能は「ストレート」と判断し、踏み込んでバットを最短距離で振り抜いた。

 だが、ベースの手前で白球が爆発的な回転を伴って、直角に、外側へと逃げ去った。

 右投げの、高速スライダー。

 左腕の魔球と完全に「鏡像ミラー」となる、もう一つのバグ。

「あ、……っ」

 戒能のバットが、完全にボールの消えた空間を空振りした。

 ドンッ、と健二のミットが今日一番の重い音を立てて白球を受け止める。

「ストライク! バッターアウト!! ゲームセット!!」

 球審の腕が上がった瞬間、ライジングスタジアムのサブグラウンドに、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。

「うおおおおおおお!!!」

 石井がベンチから真っ先に飛び出し、大槻が拳士に抱きつこうと猛突進する。源田は珍しく白い歯を見せて笑い、宮﨑は静かにヘルメットを叩いた。佐野と神里は、外野からゆっくりと、しかし確かな信頼をその足取りに滲ませてマウンドへ歩み寄る。

 6対2。

 本川中学校が、広島の絶対王者である広陵学園を下した瞬間だった。

 整列を終え、挨拶を交わす両チーム。広陵のエース・福原は、拳士の前で足を止め、悔しさに唇を噛み締めながら言った。

「……次は負けない。お前たちの『バグ』、次までに必ずハックしてやる」

「待ってるよ」拳士は冷徹に、しかし少しだけ口角を上げて応じた。

 バックネット裏の特別席では、ライジングドラゴンズの二軍監督・石原が静かに立ち上がっていた。

「左右両打席ホームランに、左右両腕での高速スライダーによる締め、か。……郭さん、あの小僧、もう中学生の枠には収まりきらねえな」

 隣で郭コーチが、嬉しそうに不敵な笑みを浮かべた。

「ああ。だが、本当の地獄はここからだ。あいつらの快進撃は、広島中の『怪物』たちを本気にさせてしまった」

 公式戦3連勝。

 無名の吹き溜まりだった本川中学校の快進撃は、もはや誰も無視できない「脅威」として広島全土に鳴り響いていた。

 試合後のミーティング。健二が黒板に向かい、次の対戦相手の文字を刻む。その文字を見た瞬間、ベンチの空気が一気に張り詰めた。

「……次の相手が決まった。去年、広島地区大会を圧倒的な強さで制した優勝校──『東広島ボーイズ』だ」

 健二の言葉に、拳士はグラブをパチンと叩いた。両腕の痛みは心地よい熱へと変わっていた。

 スタンドのまきが、茂治の古い防具袋を肩にかけ、静かに拳士たちを見つめている。

 名門を倒した怪物の前に、次なる真の王者が立ちはだかる。

 本川中メープルスの、本当の試練が始まろうとしていた。

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