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杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

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34/56

弾道の境界線


 ノーアウト満塁、スコアは1対2。

 スタジアムを支配していた広陵学園の重厚な空気は、本川中学校の下位打線が凝縮した三連打と、大槻の理不尽なポテンヒットによって完全に引き裂かれていた。

 地鳴り のような歓声が渦巻く中、二番・杉谷拳士がゆっくりとバッターボックスへ向かった。

 拳士は、右打席ではなく「左打席」へと入った。

 マウンドの福原忍は、激しい動揺を隠せないまま、キャッチャー・中村のサインに何度も首を振った。エリートとして育てられた彼のプライドが、目の前の不規則な軍団バグを認めようとしない。

(左打席……舐めるな。データの狂いを力技で修正してやる!)

 福原が渾身の力で腕を振った。初球、内角高めをえぐる135キロのストレート。

 だが、拳士の脳内盤面には、すでに福原の投球軌道が一本の線として描かれていた。右肩が硬くなり、指先が滑り始めている福原の直球は、左打者のインコースで最も甘く「静止」する。

 ──バチィィィィン!!!!!

 スタジアムの夜空に、これまでの誰の打球音とも違う、硬質で冷酷な衝撃音が轟いた。

 白球は、カクテル光線に照らされながら、右翼席へと向かって一直線に上昇していく。ライトの七尾が一歩も動けず、ただその弾道を見上げた。

 バックスクリーン右、スタンドの最上段へ白球が突き刺さる。

 満塁ホームラン。

 拳士にとって、公式戦初のアーチだった。

「うおおおおお!!!」

 本川中のベンチが、言葉通りに崩壊した。石井が狂ったように叫び、健二がメガネを何度も直しながら拳を突き出す。

 5対2。試合は一瞬にしてひっくり返った。

 拳士は感情を一切見せず、冷徹なまでに淡々とダイヤモンドを一周した。ホームベースを踏んだ瞬間、マウンドで膝をつく福原を視線だけで一瞥し、ただグラブをはめ直すためにベンチへ戻った。

 試合はそこから、拳士の両腕が支配する「冷たい盤面」へと引きずり込まれた。

 5回、6回、7回。広陵の打線は、拳士がサイドスローとスリークォーターの中間から投じる郭コーチ直伝の「高速スライダー」の前に、凡打と三振の山を築いた。二岡も、戒能も、消える軌道バグの前に完全に沈黙した。

 そして、試合は8回表、本川中学校の攻撃。

 再び、一番の杉谷拳士に打順が回ってきた。

 広陵のマウンドには、すでに福原の姿はなかった。二番手の投手が、執拗に外角低めを突いてくる。

 拳士は今度、迷いなく「右打席」へと入った。

(左で満塁弾なら、右は外角を徹底してくる。……名門の教科書通りの配球だ)

 初球、外角低めへのスライダー。拳士は見送った。ボール。

 二球目、同じコースへのストレート。わずかに中に入った。十センチの狂い。

 拳士の右腕が、しなった。

 ──ドゴォォォォン!!

 今度は地響きのような重低音がスタジアムを揺らした。

 右打席から放たれた白球は、左打席のそれとは全く異なる「力技の弾道」を描き、今度は左翼席の奥深くへと消えていった。

 ソロホームラン。

 1試合、左右両打席での本塁打という、中学生の公式戦では前代未聞の「異常事態」に、バックネット裏のライジングドラゴンズ二軍監督・石原は、ただ呆然と深くシートに背中を預けた。

「……右でも、左でも、完全にフィールドを支配していやがる」

 スコアは6対2。

 名門・広陵学園のプライドを、拳士は自らの両腕と両足、そして左右のバットで完全に粉砕してみせた。

 スタンドでは、まきがそっと涙を拭い、隣の茂治の古い防具袋が、夜風の中で静かに誇らしげに揺れていた。

 杉谷拳士というシステムは、ついに誰にも止められない領域へと到達しようとしていた。

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