表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
杉谷拳士物語  作者: 水前寺鯉太郎
中学生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/56

残響の白球


 スコアは7対1。

 大量の援護を受けた拳士は、マウンドで冷徹なまでに無表情だった。

 ベンチからはナインの陽気な声が飛び交い、石井が「あと三人! 締めようぜ!」と声を張り上げる。だが、拳士の中に緩みなど一ミリも存在しなかった。むしろ、点差が開いた今こそ、彼は自身の肉体を極限まで追い込み、「完成」させようとしていた。

 最終回、一死。

 マウンド上の拳士は、右腕をゆっくりと回し、次いで左腕を確かめるように振った。両腕ともに、限界を告げる悲鳴を上げている。特に左肘の奥には、まるで小さな針を何百本も刺されたような痛みが走っていた。

 だが、その痛みこそが「確かな証拠」だった。

「拳士、あと二人」

 ホームベース越しに健二が呟く。

「ああ。全部、縫い目を裂いてやる」

 七番、代打。力任せにバットを振り回す大型打者。

 拳士は右腕を選択した。セットポジションから放たれるのは、これまで以上に鋭角なスライダー。

 ──ビシィィィィン!!

 打者の手元で、白球が文字通り「直角」に折れた。打者のバットは、球が通過したあとで空を切る。

「ストライク!」

 二球目。今度は左腕からのチェンジアップ。極限の疲労が、かえって球速を殺し、信じられないほどの落差を生んだ。

「ストライク!」

 三球目。拳士は両腕の「境界」を消すように、左腕で振りかぶりながら、右投手の重心移動を模倣する異形のフォームを披露した。それはもはや野球の定石には存在しない、杉谷拳士という個のシステムが完成させた「バグ」の投球。

 空を切る打者のスイング。三球三振。二死。

 八番、九番。打者はもはや、拳士の球を打とうとしていなかった。ただ、一球でも多くこの「理不尽な魔術」に触れていたいという、敗者の慈しみにも似た表情でバッターボックスに立っていた。

 最後の打者。

 拳士は深く息を吸い込んだ。マウンドの土を足裏で掴む。

(親父、見てるか)

 父・茂治が、かつてライジングドラゴンズの守護神として、スタジアムを支配したあの姿。右腕から放たれる弾丸のようなストレート。

 拳士は、両腕の痛みをすべて力に変えた。

 左腕。

 ──ビシィィィィン!!!

 スタジアムの空気が弾けるような乾いた爆音。

 白球は、捕手・健二のミットに「突き刺さった」のではなく、ミットを突き抜けるほどの威力で収まった。

「ストライク、バッターアウト!! ゲームセット!!」

 静寂。

 直後、地鳴りのような歓声がスタジアムを包んだ。

 拳士はその場に崩れ落ちた。左腕が感覚を失っている。右肩も動かない。だが、顔には清々しいまでの虚無感と、それ以上の熱い充足感が同居していた。

 駆け寄ってきたナインが、拳士を囲む。

「勝ったぞ、拳士!!」

「見たか今の球! 直角だったぞ!」

 石井の歓喜の声、大槻の無邪気な笑顔、源田の小さく上げたガッツポーズ。拳士は仰向けに倒れたまま、真っ青な空を見つめた。

 かつて父の右腕を折った野球という世界。

 その世界を、俺たちは今日、少しだけ「書き換えた」。

 拳士は、傍らに落ちていた六本指の特注グラブに手を伸ばした。革の匂いは、まだ消えていない。その手には、父の温もりと、これから始まる長い闘いの予感が確かに残っていた。

 まだ、これは始まりに過ぎない。

 拳士の瞳に映る空は、どこまでも高く、どこまでも広かった。

 スタンドの一角で、深尾まきがそっと目を閉じ、小さく「お疲れ様」と呟いた。隣に寄り添う古い防具袋が、勝利の余韻に揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ