残響の白球
スコアは7対1。
大量の援護を受けた拳士は、マウンドで冷徹なまでに無表情だった。
ベンチからはナインの陽気な声が飛び交い、石井が「あと三人! 締めようぜ!」と声を張り上げる。だが、拳士の中に緩みなど一ミリも存在しなかった。むしろ、点差が開いた今こそ、彼は自身の肉体を極限まで追い込み、「完成」させようとしていた。
最終回、一死。
マウンド上の拳士は、右腕をゆっくりと回し、次いで左腕を確かめるように振った。両腕ともに、限界を告げる悲鳴を上げている。特に左肘の奥には、まるで小さな針を何百本も刺されたような痛みが走っていた。
だが、その痛みこそが「確かな証拠」だった。
「拳士、あと二人」
ホームベース越しに健二が呟く。
「ああ。全部、縫い目を裂いてやる」
七番、代打。力任せにバットを振り回す大型打者。
拳士は右腕を選択した。セットポジションから放たれるのは、これまで以上に鋭角なスライダー。
──ビシィィィィン!!
打者の手元で、白球が文字通り「直角」に折れた。打者のバットは、球が通過したあとで空を切る。
「ストライク!」
二球目。今度は左腕からのチェンジアップ。極限の疲労が、かえって球速を殺し、信じられないほどの落差を生んだ。
「ストライク!」
三球目。拳士は両腕の「境界」を消すように、左腕で振りかぶりながら、右投手の重心移動を模倣する異形のフォームを披露した。それはもはや野球の定石には存在しない、杉谷拳士という個のシステムが完成させた「バグ」の投球。
空を切る打者のスイング。三球三振。二死。
八番、九番。打者はもはや、拳士の球を打とうとしていなかった。ただ、一球でも多くこの「理不尽な魔術」に触れていたいという、敗者の慈しみにも似た表情でバッターボックスに立っていた。
最後の打者。
拳士は深く息を吸い込んだ。マウンドの土を足裏で掴む。
(親父、見てるか)
父・茂治が、かつてライジングドラゴンズの守護神として、スタジアムを支配したあの姿。右腕から放たれる弾丸のようなストレート。
拳士は、両腕の痛みをすべて力に変えた。
左腕。
──ビシィィィィン!!!
スタジアムの空気が弾けるような乾いた爆音。
白球は、捕手・健二のミットに「突き刺さった」のではなく、ミットを突き抜けるほどの威力で収まった。
「ストライク、バッターアウト!! ゲームセット!!」
静寂。
直後、地鳴りのような歓声がスタジアムを包んだ。
拳士はその場に崩れ落ちた。左腕が感覚を失っている。右肩も動かない。だが、顔には清々しいまでの虚無感と、それ以上の熱い充足感が同居していた。
駆け寄ってきたナインが、拳士を囲む。
「勝ったぞ、拳士!!」
「見たか今の球! 直角だったぞ!」
石井の歓喜の声、大槻の無邪気な笑顔、源田の小さく上げたガッツポーズ。拳士は仰向けに倒れたまま、真っ青な空を見つめた。
かつて父の右腕を折った野球という世界。
その世界を、俺たちは今日、少しだけ「書き換えた」。
拳士は、傍らに落ちていた六本指の特注グラブに手を伸ばした。革の匂いは、まだ消えていない。その手には、父の温もりと、これから始まる長い闘いの予感が確かに残っていた。
まだ、これは始まりに過ぎない。
拳士の瞳に映る空は、どこまでも高く、どこまでも広かった。
スタンドの一角で、深尾まきがそっと目を閉じ、小さく「お疲れ様」と呟いた。隣に寄り添う古い防具袋が、勝利の余韻に揺れていた。




