レジェンドの視線
公式戦二連勝。しかも相手は地区予選の常連や、格上のシード校たちだ。
無名の「吹き溜まり」であったはずの本川中学校(広島メープルス第2チーム)の快進撃は、静かに、しかし確実に広島の野球関係者の間で噂となり始めていた。
グラウンドを去ろうとするナインの背中に、重厚な影が落ちる。
一人の男が、バックネット裏からゆっくりと歩み寄ってきた。その男の姿を認めた瞬間、衣笠総監督が表情を引き締め、郭コーチが姿勢を正した。
広島ライジングドラゴンズ・二軍監督、石原。
現役時代は「鉄壁の守備」を誇った名二塁手であり、指導者としても厳格な規律を重んじることで知られる人物だ。
「……石原監督」
衣笠の挨拶に対し、石原は短く頷くと、まっすぐに拳士の方を見た。その視線には、かつての盟友・杉谷茂治を知る者特有の、複雑な感情が混ざっていた。
「杉谷、か」
低い、だが地響きのような声。拳士は足を止め、無造作に右手の指先を左手のグラブで拭った。
「……誰だ」
石原は拳士の不躾な問いに怒ることもなく、むしろ微かに口角を上げた。
「俺は石原。お前の親父とは、二軍の泥んこ時代からの付き合いだ」
拳士の瞳の色が変わる。石原は、茂治がプロの荒波でどれほど足掻いたかを知る、数少ない生き証人だった。
「……親父を、知っているのか」
「知っているどころじゃない。茂治の右腕が壊れる瞬間を、一番近くで見ていた人間の一人だ」
石原の目は、拳士が抱える六本指のグラブ、そしてまだ若く、しかしどこか早すぎる成熟を見せるその肩に釘付けになっていた。
「二試合見た。……お前、面白い球を投げるな。左右を使い分け、データに頼らず、その上、泥をすするような野球もできる」
石原は拳士の周囲に控えるナインたち――源田や大槻の顔を一人ずつ見回した。
「普通の中学生なら、このスコアなら浮かれるはずだ。だが、お前たちは違う。まるで、何かの『実験』でもしているかのような目だ」
拳士は返事をしなかった。だが、拳士の周囲の空気が、ピリリと張り詰める。
「お前たちが目指しているのは、ただの優勝か? それとも、俺たちの知っている『野球』を、根底から覆すことか?」
石原の問いかけは、あまりに核心を突いていた。
健二がメガネを押し上げ、一歩前に出る。
「監督。僕たちは、ルールを壊すためにここにいるんです」
「ルールを、壊す……か」
石原は大きな手で自分の顎を撫でた。かつて茂治がそうであったように、石原の脳裏にも、何か計算外の回路が組み込まれようとしていた。
「面白い。お前たちの次の対戦相手は決まっている。……次は、お前たちの『システム』がどこまで通用するか、この俺が特等席で見せてもらうことにする」
石原はそれだけ言い残すと、振り返らずに去っていった。
その背中を見送りながら、拳士はグラブを握りしめる。
(プロの二軍監督……。親父が越えられなかった壁の、ほんの入り口か)
石原の影がグラウンドから消えた後、拳士はナインを振り返った。
「聞いたか」
「ああ、聞こえたよ」源田が欠伸を噛み殺した。
「次は、プロが本気で俺たちを値踏みしに来るぞ」と宮﨑がニヤリと笑う。
拳士の胸の奥で、父・茂治の幻影が、かつてないほど強く熱を帯びた。
広島の片隅で始まった小さな火種は、もはやプロ野球界という巨大なシステムそのものを巻き込もうとしていた。
「準備しろ」拳士はグラブを叩き、力強く言い放った。「俺たちの野球は、ここからが本番だ」




