魔王5
「おや、そんなに肩を怒らせて。剣を握る手が震えているよ? リラックスして。ここはただの静かな部屋だ。……今は、ね」
魔王は、手元のティーカップをゆっくりと回しながら、薄く笑みを浮かべた。その瞳は何も見ていないようでいて、相手の心の奥底にある最も触れられたくない箱を正確に射抜いている。
「ねぇ、ふと思ったんだけど。君の愛する人は、今どこで何をしているんだろうね? 」
何かを言いかける相手の言葉を、魔王は人差し指を唇に当てて制した。
「ふふふ……そうなんだ。無事だと信じているんだね。素晴らしい信頼関係だ。……いや、今日は本当に天気が良いし、絶好の機会だと思わない? 窓の外を見てごらんよ。あんなに穏やかだ。……何がって? いや、何がだろうね? 」
魔王はわざとらしく小首をかしげ、楽しげに言葉を繋ぐ。
「良くないことが起こるかもしれないし、とっても良い日になるかもしれない。例えば……そう、君の愛する人によく似た、非常によく似た女性が時々使っているあの裏口。今日、たまたま運悪く鍵が壊れちゃって、通りすがりの、少しばかり理性を失った男が侵入しちゃって……今ごろ、君の大切な人が泣き叫んでいるかもしれない。あるいは、ただお茶を淹れて君の帰りを待っている、平穏な一日かもしれないね」
相手の顔が青ざめ、呼吸が荒くなるのを、魔王はうっとりと眺めている。
「えっ? いやいや、私は何も知らないよ。ただの想像さ。例えばの話。そんなに怖い顔をしないで。きっと大丈夫だから。……きっとね。まぁ、良いこともあるよ、そのうち。悪いことばかりじゃない。……でも、もしそれが真実だったら、君がここで私と無駄話をしている一秒一秒が、取り返しのつかない後悔になるんだろうね」
魔王はカップを置いた。カチリ、という小さな音が、静まり返った部屋に妙に響く。
「さあ、どうする? 確信がないまま私を斬るかい? それとも、今すぐ駆け戻る? ……おっと、戻った先に何もなかった場合、君は果たすべき使命を捨てて逃げ出した臆病者になるわけだ。それもまた、面白いね」
「おや、まだそこに立っているのかい? 賢明だね。でも、その足が震えているのは……脳裏に浮かんだ情景が、私の言葉よりずっと鮮明だからだろう? 」
魔王はゆっくりと立ち上がり、影のように音もなく歩み寄る。
「……可哀想に。ひどい顔色だね。ねぇ、何か鼻の奥がツンとしないかい? どこかで嗅いだことがあるような、鉄の匂い。……そう、血の匂いだ。あれ? 誰かあそこに倒れてる? 気のせいかな? 気のせいだったら良いんだけど……」
魔王は喉の奥で低く笑い、相手の耳たぶに触れるか触れないかの距離で言葉を落とす。
「よく思い出してごらん。遠い昔、君が冒険に出る前、彼女はよくキッチンにいたね? 焼きたてのパンの匂い……。でも、今はどうだろう。その匂いに、生暖かい肉が焦げるような、嫌な甘みが混ざっていないかい? 想像してごらんよ。誰かがたまたま、コンロの火をつけっぱなしにしたまま、彼女を引きずっていったとしたら。……パチパチと、何かが爆ぜる音が聞こえてこないかい? 」
魔王はふっと息を吹きかけ、相手の視界を揺さぶる。
「あるいは、もっと静かな音だ。……ほら、耳を澄ませて。しん、とした静寂の中に、水滴が滴る音が混ざっている。ポツン、ポツンと。……それが水か、それとも彼女の指先から溢れたものか。君は判別がつくかい? 君の指先、少し湿っていないかい? それは君の汗かな? それとも、今まさに遠くで流れている誰かの体液なのかな? 」
魔王は愉悦に目を細め、カップを眺めている。
「君が今、ここで私の言葉を拒絶しようと奥歯を噛み締める、そのミシミシという骨の音。……それが、彼女が誰かに組み伏せられ、抵抗を諦めて骨が軋んだ音と、同じだとしたら? 君が愛したその肌が、今はどんな色に変色し、どんな手触りに成り果てているのかを。いや……いつも通りだと良いけどね。何事もなく普段と変わらない平穏な日常。これがただの私の意地悪な作り話であってほしいと、私自身も願っているよ」
魔王は細い指を相手の額に触れさせ、吐息を漏らす。
「あるいは……ほら、見えるかな。君が帰った時、玄関に転がっている見覚えのある靴。家の中に漂う、鉄の匂い。静まり返った部屋。……そして、奥の部屋から聞こえてくる、聞き覚えのない男の笑い声」
「……いやいや、冗談だよ。ただの想像。でもね、想像できるということは、それはどこかで起こりうる現実として存在しているということだ。君が今、ここで私を斬った瞬間、その想像が確定した真実へと滑り落ちる……。そんな気がしないかい? 」
魔王は、獲物の魂がひび割れる音を楽しむようにゆっくりと微笑んだ。
「さあ、もっと想像して。君の豊かな想像力が、君自身を『安心』させるまで。大丈夫、時間はたっぷりあるよ。……だって、君がここで悩んでいる間にも、あちら側の現実は刻一刻と、最悪の方へと転がり続けているかもしれないし……あるいは、君が帰るのを"静かに"待っているだけなのかもしれないのだから」




