第81話 間に合わなかった命のために
《大地の耳》が示した危険地域は、十二か所に及んだ。
町が二つ、村が七つ、小規模な宿場が二つ。そして、強い自治権を持つ一つの部族領。いずれも《大地の審判》の巡回路か、それに伴う地割れや崩落の予測範囲に入っている。
中央評議府は、観測結果が届くと緊急避難命令を発した。翼を持つ伝令兵が首都を飛び立ち、狼煙台が赤い煙を上げ、遠距離通信用の水晶板が警告を中継していく。
最初の報告が届いたのは、修復を終えた日の朝だった。
「カナト街道宿場、避難完了! 住民二百十一名、負傷者なし!」
歓声が上がるより先に、地形図を橙色の波紋が通過した。宿場近くの街道が陥没し、森から逃げ出した魔獣の群れが、無人となった建物の間を走り抜けたという。
住民たちが移動を始めるのが少しでも遅ければ、馬車も荷物も、避難する者たち自身さえ道を塞ぎ、多くの命が巻き込まれていただろう。
続いて二つの村から避難完了の報せが届いた。別の町では魔獣群の進路を予測できたため、南門を閉じ、北門へ住民を誘導できたそうだ。
リネアたちは地下に留まり、慎重に観測を続けた。新たな震動を拾うたび、巡回の速度と周囲へ及ぶ影響を計算し直す。予測が変われば警告も送り直した。
手に入った地図は答えそのものではない。動き続ける災厄を捉えるため、こちらも見張り続けなければならなかった。
「第五対象、全員退避。第六対象も護衛隊と合流しました」
『北西街道の魔獣群について予測進路を更新。人的被害は確認されていません』
ネメシスとルクスの報告を聞き、リネアはようやく息を吐く。
「なんとか間に合った……」
「君が《大地の耳》を直してくれたからだ」
主任技師が、地図の青い印を見上げた。
「我々は各地の被害報告を待つことしかできなかった。今は、揺れが届くより先に民を動かせる」
「私だけじゃありません。みんなで直して、命令を届けた人がいて、現地の人たちも信じて動いてくれたからです」
主任技師は頷いた。机には、ただ二百十一名と記された報告がある。その数の中に、朝の支度をしていた人も、寝ぼけた子供も、仕事へ向かう途中だった人もいるのだろう。
顔は分からなくても、今は生きている。そのことが、徹夜で重くなった身体を支えてくれた。地上から慌ただしい足音が響いたのは、十一番目の地域から退避完了の報告が届いた後のことだ。
「緊急報告! 北方、《岩角族》領へ派遣した使者より伝達!」
泥と汗にまみれた伝令兵が、入口で姿勢を正す。
「部族長は、避難命令の受諾を拒否しました!」
地図には、一つだけ赤い印が残っていた。険しい岩山に囲まれた盆地。その中央を、巡回経路が横切っている。
「拒否って、どうして?」
リネアの疑問に、主任技師は苦い顔で答えた。
「岩角族は強い自治権を持っている。七百年以上、あの土地を離れていない。かつて中央の命令で移住を迫られた歴史もあり、評議府への不信が根深いのだ」
「《大地の審判》のことは、伝えたんですよね?」
「観測図の写しとともに、三度、危険を説明した。だが、古い遺物で見つけた別の遺物の話など信用できないと……最後には通信水晶の接続を切り、使者を領外へ出したそうだ」
リネアは地図へ顔を寄せる。
「到達まで、どのくらい?」
『現速度で巡回を継続した場合、盆地への到達まで五十三分。最短の予測では、それより早まります』
「近くの部隊は?」
「最寄りの飛行騎兵でも、一時間半はかかるだろう」
「ネメシス、なんとか転移できない?」
「当該地域の安全な空間座標を保持していません。視認情報も転移標識もなく、現在の地形図では出現地点を確定できません」
「私の既知座標も、あの盆地には届かない」
アールは複数の地点を指で辿り、首を振った。
「近くへ飛んでから移動する案も、時間が足りない。古い地図を頼りに直接飛べば、岩盤の中へ出る恐れがある」
修理が終われば、できることが増えると思っていた。実際、多くの命を助けられた。それなのに、目の前に危険が見えていても、そこへ手を届かせる方法がない。
「使者の人たちは、まだ近くにいるんですか」
「領外の峠へ退避している」
「もう一度だけ、呼びかけを頼めませんか。中央の命令だからじゃなくて、まず谷から離れてほしいって。荷物も、家も、そのままでいいから」
伝令兵は主任技師の頷きを見て、通信用の区画へ走った。
「《大地の耳》から、あれに止まれって信号を送ることは?」
「観測装置に命令権はない。識別信号を受け取れても、こちらの意思を受諾させる経路がないのだよ」
アールの答えは短かったが、説明を惜しんでいるのではない。彼女も、ほかの方法を探している。その指先が、地図の上で止まっては、別の場所へ動いていた。
救援へ向かった飛行隊は、なお岩山の向こうにいた。峠の使者からは、呼びかけに応答がないとの報告が届く。通信水晶を繋ぎ直そうとする技術者の声が、何度も同じ空白へ消えていく。
「経路が変わる可能性は?」
『直近六回の震動記録は古代巡回路とほぼ一致。自主的な迂回を示す変化は検出されません』
リネアは義眼の解析を繰り返した。使える通路、通信設備、移動手段。新しい手を思いついたと思うたび、その先にある距離と地形が行く手を塞ぐ。
やがて橙色の反応が、盆地の外縁へ到達した。十六本の地脈針が低く唸り、続いて鋭い波形が地図を走る。
「高密度魔力反応! 集落側から複数!」
岩角族が戦っている。自分たちの土地を守るため、接近する巨大な存在へ武器を向けたのだ。
リネアは息を呑んだ。まだ話せていない。危険があるという言葉を届けただけで、何を恐れ、なぜそこを離れられないのか、彼らの声を一度も聞けていない。
集落側の小さな反応へ、《大地の審判》の光が重なった。
地形図全体が白く染まり、遅れて凄まじい震動が届く。首都の地下にまで轟音が響き、天井から砂が降った。
「入力が上限を超える!」
『増幅率を低下。中枢への流入を制限します』
リネアは遮断環へ手をかけ、緊急停止の直前で待った。記録を守りたい。けれど、ここで耳を塞げば、その後に何が起きるのか分からなくなる。
「持って……お願い!」
赤と青の光が入れ替わり、長い数秒の後、表示が戻った。《大地の審判》は同じ速度で進み続けている。ただ、その後方にあった建造物の反応が、一様に消えていた。
「集落側の反応は?」
「再検出しています。術式反応なし、通信応答なし!」
生体を一人ずつ調べられる装置ではない。反応がないことだけで、全員が死んだとは決められない。主任技師は再走査と現地確認を命じ、リネアも地図から目を離さなかった。
誰かが生き残っているなら、まだ終わっていない。そう思い続けることしか、できなかった。
▲▽▲―――▲▽▲
凶報が確かなものとなったのは、翌日の昼のことだ。
北方で巡回を追跡していた飛行偵察兵が帰還し、記録水晶が運び込まれた。通信の中継圏外から持ち帰られた映像には、砂塵に覆われた山と、そこから現れる装甲頭部が映っていた。
一つの砦よりも大きな顎。その後ろに城塞都市を思わせる背部が続き、脚が地を踏むたび岩山が崩れていく。
寸法は、古い外形記録で知っていた。だが、実際の山や防壁と並んだ姿は、立体図を見ていた時には理解できなかった移動要塞の規模の大きさを突きつけてきた。
防壁の上に、太い角を持つ戦士たちがいる。弩砲が火を噴き、土と岩の魔術が要塞頭部へ叩きつけられた。爆発が装甲を覆っても、その歩みは止まらない。
やがて背部の装甲が一つ開き、白い光が漏れた。映像が光に呑まれる。離れた高空にまで衝撃波が達し、記録は激しく乱れゆく。再び地上が映った時、防壁も集落も、背後の岩山の一部さえ消えていた。
巨大な窪地の中央を、移動要塞が進んでいる。もはや振り返ることもなく。
偵察兵も降下して岩角族に警告を試みたが、間に合わなかったという。攻撃の後は高熱と粉塵に阻まれ、救援部隊が到着しても、捜索は熱の引いた場所から少しずつ進めるしかなかった。
「領内を再調査した結果、生存者は確認できませんでした」
報告官が声を絞り出す。
「族籍台帳に記録された六百余名は、全員が死亡したものと判断されます」
六百余りの命。七百年をかけて守られた暮らし。それまで地図の赤い印だった場所に、食事も、家族も、名前もあった。
誰が何を望んでいたのか、リネアには分からない。土地を離れまいと決めた者も、決める立場になかった者もいただろう。避難を拒んだという一言で、そのすべてを分かったことにはできなかった。
若い技術者が、観測図から消えた集落の位置へ地名を入れ直している。建造物の反応はなくても、記録までなくなるわけではない。その手が、被害状況を記す欄の前で止まる。
「その名前は、残してください」
自分でも、なぜ声を出したのか分からなかった。技術者は驚いたように顔を上げ、ゆっくり頷く。
「必ず残すとも」
主任技師が意志を込めて答える。
「ここに人が暮らしていたことまで、なかったことにはさせん」
地図へ戻った地名を、リネアは目で辿った。命を救えなかった後にできることが、あまりにも小さい。その小ささが悔しくても、消してしまってよいものではない。
「戦略級……これが、戦略級兵器なのか」
主任技師の呟きへ、アールが静かに答えた。
「今のは、まだ全面的な戦闘ではない」
「何だと?」
「足を止めず、主兵装も展開していない。巡回路上で攻撃されたため、局地的な防衛行動を取っただけだ。軍を差し向け、敵対勢力と認識されれば、脅威は今の比ではなくなる」
説明を終えても、アールは映像の途切れた場所を見つめていた。その声の低さが、語られた事実の重さを際立たせていく。
リネアは両手を見下ろした。この手で大地の耳を直した。危険を知らせ、多くの住民を逃がせた。だが、それだけでは救えない人たちがいる。
修理した機械は、正しい情報を届けてくれる。その情報を受け取る人間には、それぞれの暮らしと過去がある。故障箇所を繋ぎ直すように、その間の断絶を埋められるわけではなかったのだ。
黒い指先が手へ触れた。ルクスが身を低くし、右手を差し出している。
『リネアの修理と観測情報により、十一地域の住民が退避に成功しました』
「……うん」
『救命できなかった事実は消失しない。しかし、救命できた事実もまた消失しません』
慰めるためにどちらかを消すことはしない、ルクスらしい言葉だった。リネアは差し出された指へ手を重ね、冷たい金属の感触を確かめる。
「両方、覚えておく」
傍らでネメシスが瞳を伏せた。
「命令に従うだけなら、あの存在にとっては正常な結果なのでしょう。ですが、私は停止させるべきだと判断します」
白銀の長棒を握る手が、静かに動く。
「過去の命令ではなく、現在を生きる者のために」
「絶対に、止めよう」
方法はまだ分からない。それでも、次の町へ同じ光が落ちるのを見ているだけではいられなかった。
▲▽▲―――▲▽▲
地上へ続く扉が開き、最初の依頼を届けた狐獣人が、護衛を伴って入ってきた。以前より硬い表情で、数多くの氏族印が並ぶ書状を差し出す。
「《レックレス》へ、中央評議会から正式な召喚が下された」
修復と観測によって十一地域の住民を救ったこと。そして《大地の審判》と軌道昇降施設に関する知識について、各氏族長が直接話を聞きたいという。
国家の意思を決める者たちへ、ついに道が繋がった。ただし、会うことを認められたにすぎない。何を引き受けてもらえるかは、これからの対話で決まる。
リネアは銀髪の少女を見た。
「これが、アールの目的に続く道なんだね」
「君たちの力を示し、信用を得て、この国が守る情報へ辿り着く。その先で《到達不能点》への道を開く。望んでいたのは、そういう流れだよ」
「岩角族の人たちまで、その道の一部みたいに言わないで」
アールは、地図の失われた集落の印を見る。
「心得たよ。彼らの死は、私たちが利用するために起きたのではない」
短い間の後、橙色の瞳が戻ってくる。
「だが、起きたことから目を逸らせば、次の犠牲を増やす。今度は、間に合わせよう」
リネアはそれに強く頷いた。
円卓議事堂には氏族の旗が並んでいた。牙、翼、角、爪、尾、鱗。それぞれの歴史を示す紋章の一角で、《岩角族》の旗に黒い布が結ばれている。
リネアは足を止め、頭を下げた。ルクスも単眼を伏せ、ネメシスは胸元へ白い手を添える。アールは何も言わず目を閉じた。
名前を一人ずつ知ることはできなかった。顔を見ることも、話を聞くこともできなかった。それでも、この旗の前を何も考えず通り過ぎることは、できなかった。
あの部族も、この国を形作る一つだった。中央との隔たりを生んだ歴史も、祖先の土地を守ろうとした誇りも、黒い布の下へ一緒に残されている。
議場へ向かう者たちが足を止め、その旗へ目をやるたび、返事をする者のいない場所が、確かにここにあるのだと感じられた。
議事堂の内側から鐘が鳴る。
「《レックレス》の皆様。中央評議会がお待ちです」
衛兵の声に、リネアは衣服の裾を整えた。
「今さらだけど、国家首脳陣と会う時の作法なんて、知らないよ」
「質問へ誠実に回答すれば、重大な問題は生じないと推測します」
ネメシスが答え、ルクスも身を寄せた。
『必要に応じて、交渉内容を補足します』
「ありがとう、心強いよ」
傍らに三人がいる。それだけで、指先から少しずつ力が抜けた。アールが一歩前へ出る。
「さあ、行こう。ここからが、本当の始まりだ」
巨大な円形扉が、重い音を立てて開く。中央の円卓には、姿も種族も異なる者たちが座っていた。獅子、狼、鷲、山羊、蛇。長い歴史と氏族の命運を背負う、獣盟国の族長たち。
迎える視線は、感謝ばかりではなかった。人族の娘を値踏みする目も、ネメシスの白い義体から離れない目もある。自分たちに何ができるのか、何を求めてここへ来たのか。これから、そのすべてを問われるのだ。
正面の老いた獅子獣人が、代表してゆっくりと口を開いた。
「冒険者パーティ《レックレス》」
低く厳かな声が議場を満たす。
「我らの国を踏み潰そうとしている、あの災厄を止める術。それを、諸君に聞かせてもらいたい」




