第82話 私が、アールになった日
「それを、諸君に聞かせてもらいたい」
老いた獅子獣人の声が、円卓議事堂を満たしていた。我らの国を踏み潰そうとしている、あの災厄を止める術。その問いを向けられた《レックレス》の中で、最初に進み出たのはアールだ。
「結論から言えば、《大地の審判》を外側から破壊してはならない」
小柄な身体へ、各氏族長の視線が集まる。アールは円卓の向こうを見渡し、言葉を続けた。
「あれは《到達不能点》と、その中心に残された軌道エレベーターを守る番人だ。強引に破壊すれば、昇降施設は侵入阻止機構によって永久に封鎖される」
「なぜ、そのようなことまで知っている?」
右側に座る鷲獣人が鋭く問う。
「《大地の耳》に記録されていた情報だけに依拠する内容ではあるまい」
「無論だとも。私は以前、あの番人を越え、《到達不能点》へ入ったことがある」
議場がどよめいた。隣の氏族長へ顔を向ける者もいれば、身を乗り出す者もいる。アールはその反応を予想していたらしく、橙色の機械眼を逸らさなかった。
「馬鹿な。あの土地から帰還した者の記録など存在しない」
「君たちが保管している記録より、ずっと昔の話なのでね」
「見たところ、貴様は十七、八の娘ではないか」
「惜しい。永遠の十七歳だよ」
いつもならここで得意げに胸を張るような言葉だったが、この時のアールは笑わなかった。リネアはその横顔を見つめる。
彼女が見た目どおりの年齢ではないことは、既に知っている。それでも、なぜ十七歳なのかを、これまで考えたことはなかった。軽口として聞き流していた数字が、この場では妙に重く響いている。
「情報屋アール。星紋創始者フォモス。アーキテクト第一席次ジェネシス」
自らの名を一つずつ並べる声に、ざわめきが途切れた。誰かの椅子が軋み、壁際の近衛兵が槍を握り直す。老獅子はアールから目を離さず、ゆっくりと口を開いた。
「それが事実なら、容易に信用せよとは言えぬ名が含まれているな」
「承知しているよ。名を明かしただけで信用を得られるとは思っていない。だが、知られれば都合が悪いからと伏せたまま、この国へ協力を求めるわけにもいくまい」
アールは白い袖口を整えた。その指先に、普段の気楽な身振りはない。
「私は長い時間の中で、必要に応じて名前を替えてきた。《大地の審判》を知る理由も、《到達不能点》を目指す理由も、その時間の中にある」
「それを、我らに語るというのか」
「協力すべき相手かどうか、君たち自身に判断してもらうためにね」
老獅子はしばらく沈黙した後、続きを促すように頷いた。まだ協力が決まったわけではないし、リネアにもそれは分かった。ただ、今は話を聞いてもらえる。
そのためにアールは、自ら隠してきたものを差し出そうとしていた。
アールが一度、三人を振り返る。ルクスの碧い単眼と、ネメシスの黄緑色の双眸が、静かに彼女へ向けられていた。リネアも何も促さず、静かに答えを待った。
「もっとも、どこから始めるべきかは少々悩ましい。なにしろ、ずいぶん長い話だ」
白い指が胸元へ触れ、橙色の菱形が遠い過去を見るように細められる。
「そうだね。まずは、私が初めて名前をもらった日のことから始めよう。フォモスでも、ジェネシスでもない――私が、アールになった日から」
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雪の降る日だった。細かな白い欠片が古びた孤児院の屋根へ積もり、窓の内側まで凍らせていた。暖炉へ入れる薪は三日前に尽きている。
食堂へ集められた子供たちは、薄い毛布を互いに重ね、身を寄せ合って寒さを凌いでいた。
とある少女だけは、その隅で一冊の本を読んでいた。表紙は破れ、半分近い頁が抜け落ちている。それでも残った文字を何度も読み、余白へ炭の欠片で計算式を書き込んでいた。
指がかじかむたびに袖へ引っ込め、少し温まればまた頁をめくる。
「こんな時まで勉強しているのかい」
孤児院長に声をかけられ、少女は顔を上げた。
「覚えたことは、なくなりませんから」
「古本も、燃やせば暖かくなるよ」
「燃やしたら、一度しか暖かくなりません。でも、覚えれば知識として何度でも使えます」
少女が本を閉じると、院長は困ったように笑う。その目は赤く腫れていた。孤児院を維持するための寄付は減り続け、借金ばかりが増えている。
先月から食事は一日一度になり、職員の半分が給金を受け取れないまま去っていた。そして今日、最後の返済期限を迎える。
昼前になると、子供たちは一人ずつ孤児院を出ていった。幼い子は別の施設へ、身体の丈夫な年長者は住み込みの働き口へ。
運のよい者には引き取り手が見つかった。名前を呼ばれるたびに毛布の山が小さくなり、食堂に残る声も減っていく。
その少女には、どの行き先もなかった。働き口へ出すには幼すぎ、養子を求める者たちには年長すぎると断られた。
九歳という微妙な年齢だけでなく、小さな身体も、知らない大人へ愛想よく笑えないことも、誰かに選ばれるには不都合だったのかもしれない。
最後の一人になった少女へ、院長は小さな布袋を渡した。中には固くなったパンが二つと、銅貨が三枚入っていた。袋の口を結ぶ手は荒れ、指先のひび割れに血が滲んでいる。
「本当にごめんね」
院長はそれだけを何度も繰り返していた。少女は首を横へ振り、破れた本を抱え直す。
「今まで、ありがとうございました」
ここで泣けば困らせてしまうと思った。ここへ残りたいと言っても、院長の手元に何かが増えるわけではない。
だから最後まで泣かず、布袋を握って門を出た。背後で閉鎖された建物は、翌日には債権者へ引き渡される。もう戻れないと理解したうえで、少女は降り続ける雪の中を歩き始めた。
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三日後、銅貨は一枚になっていた。パンは前日の朝に食べ終え、最後の一枚を何に使うかだけが、まだ決まらずにいた。
少女は市場の軒下へ座り、往来する人々を眺めていた。通行人へ寄付を求める手を伸ばすことはしない。
一度だけ銅貨をもらうより、どの店が人手を必要としているのか、どの時刻なら荷運びの仕事へ紛れ込めるのかを調べた方が、長く生きられる。そう考え、人と荷車の流れを本の余白へ記録していた。
だが、かじかんだ指は炭片を何度も取り落とした。空腹で数字が滲み、店の名前が読めなくなってくる。拾った炭を持ち直した時、一人の男が軒下へ入ってきた。
三十を越えた頃に見える、痩せた壮年の男だった。無造作に伸びた黒髪と擦り切れた外套。右の頬には古い刃傷が走っている。
壁へ背を預けて煙草を取り出した男は、火を点けようとして少女の視線に気づいた。
「なんだ、煙草でも欲しいのか?」
「要りません」
「なら、そんな目で見るな」
少女が本当に見ていたのは、男よりもその背後だった。人混みの中に、同じ方向へ注意を向け続ける者が三人いる。
一人は果物を選ぶふりをして何も買わず、一人は空の籠を持って同じ場所を二度往復した。最後の一人は、外套の下へ片手を入れたままだ。
「あなたを見ている人たちがいます」
男の手が止まる。
「何人だ」
「三人。たぶん、もう一人います。三人とも時々、同じ路地を確認しているから」
「どの路地か分かるか?」
少女が視線だけで示すと、男は煙草を咥えたまま笑った。
「なるほど。四人目は路地の出口か」
「知っていたんですか」
「三人目まではな」
次の瞬間、少女の腕が掴まれた。悲鳴を上げる間もなく引き上げられ、そのまま裏路地へ連れ込まれる。
「このまま走れ」
「えっ?」
「生きたけりゃ走れ!」
背後で怒号が上がる。男は少女の手を引き、積まれた木箱を蹴り倒しながら進む。二つ目の角では壁を蹴って低い屋根へ飛び乗り、少女の身体まで腕ごと引き上げた。
薄い靴の底が何度も滑り、そのたびに腕を掴む力が強まった。
「北へ追い込むぞ!」
背後の市場から声が上がる。少女は息を切らしながら、首を横へ振った。
「違います。北の人は、大声で嘘を言っています。南に二人回っているようです」
声とは別の方向から、石畳を蹴る靴音が二つ聞こえていた。男が屋根の隙間から下を覗くと、刃物を持った影が南側の通路へ走っていくところだった。
「よく聞いてやがる」
男は少女を抱え、反対側の軒へ飛び移った。追手の声が遠ざかっても、その手は離れない。幾つもの路地と建物を抜け、二人は使われていない地下倉庫へ辿り着く。
鉄扉を閉め、仕掛け錠を三つ下ろしたところで、男はようやく少女を放した。走り続けた脚から力が抜け、彼女は壁へ背をつく。男はその様子を見下ろし、突然、尋ねた。
「ところで腹は減ってるか」
「……減っていません」
答えた直後、腹が小さく鳴った。男は声を上げて笑い、棚から保存食の包みを取り出す。
「嘘が下手すぎる。それじゃ裏通りで三日ともたねえぞ」
放って寄越されたのは、乾燥肉と、まだ柔らかさの残るパンだった。少女は受け取ったまま、すぐには口をつけない。
「代わりに、何をすればいいんですか」
「特に何も」
「ただで食べ物をくれる人はいません」
「そいつは正しい。なら、さっき四人目を見つけた代金だ。食え」
男は椅子へ腰を下ろし、ようやく煙草へ火を点けた。少女は少し迷い、パンを小さく千切った。一口目を飲み込むと、もう止められなかった。
男は何も言わずにその様子を眺め、途中で水の入った器だけを近くへ置いてやる。
「お前、名前は?」
食べ終わる頃に尋ねられ、少女は答えかけた口を閉ざした。孤児院の帳簿へ記された文字は覚えている。
しかしながら、ほとんど呼ばれたことのないそれは、自分を示すための記号のようにしか思えなかった。
「呼ばれたい名前はありません」
「そうか。裏で生きるなら、本名なんざない方が都合がいい。俺もエスとしか名乗らん」
「エス……」
「お前は、そうだな…アールだ」
「どうして?」
「俺の一つ前を示す文字だからだよ」
意味が分からず見返すと、男は面倒そうに宙へ二つの文字を書いた。
「アールの次がエスだ。俺より一歩前を歩いて、危険を見つけろ。今日からそれがお前の仕事だ」
「私は、雇われたんですか」
「拾っただけだ」
「食事の代金は?」
「働きで返せ」
「雇用はいつまで?」
「役に立たなくなるまでだ」
契約書も、保証も何もなかった。気まぐれに孤児を拾った裏稼業の男と、生きる場所を得るために、その男の役に立とうとする少女。
家族と呼び合うはずもなく、友人になるための出会いでもない。それが、エスとアールの始まりだった。
▲▽▲―――▲▽▲
エスが用意した最初の寝床は、地下倉庫の隅に置かれた長椅子だった。毛布には穴が空き、椅子の詰め物も半分ほど飛び出している。
それでも、凍った石畳へ座るよりはずっと柔らかく温かかった。
「雨水は入らん。外よりましだ」
そう言って、エスは自分が使っていた外套を投げて寄越した。
「これは?」
「明日の朝までに凍え死なれたら、食わせた分が無駄になる」
「エスは寒くないんですか」
「ガキよりは丈夫だ」
それ以上は尋ねるなという顔をしていたので、アールは外套を身体へ巻き、長椅子に横になった。つい先ほどまで知らなかった男が、部屋の反対側にいる。
安心して眠れる理由はないはずなのに、パンを食べて少し温まった身体は、どうしても目を開けていられなかった。
翌朝、目を覚ますと、エスは別の椅子で眠っていた。片手には抜き身の短剣が握られている。寝ている間でさえ誰かを警戒している姿を見て、アールは音を立てずに起き上がった。
床には、店や人の名前、金額や日時を書いた紙が散らばっていた。一枚ずつでは意味を持たない記録が、部屋中へ無秩序に放り出されている。
アールは同じ名前と数字を探し、関係する紙を近くへ並べ直し情報を整理していく。
何度も現れる商会名が一つ。支払われた金額と、運び込まれた荷の量が合っていない記録が三つ。不足分を辿ると、昨日エスを尾行していた男の一人へ行き着いた。
「おい。誰が触っていいと言った」
振り返ると、エスが短剣を持ったまま見下ろしていた。アールは紙から手を離す。思えば、与えられた仕事は危険を見つけることであって、勝手に記録を動かすことではなかった。
「ごめんなさい」
「元へ戻せるか」
「はい」
「なら、その前に説明しろ。どうしてこいつらをこういう風に並べた」
アールは、自分が見つけた繋がりを話した。エスの眠そうな目が少しずつ鋭くなり、やがて、机の縁へ紙を一枚引き寄せる。
「荷抜きしていたのは、あの野郎か」
「たぶん。二か月前から、同じ量だけ数字が合いません」
「文字と計算は、どこで覚えた」
「孤児院にあった本で」
「まさか全部独学か?」
「分からないところは、分かるまで読みました」
エスはしばらく黙り、短剣を鞘へ戻した。アールはその動きを見ながら、拾った紙の端を揃える。元の位置へ戻せと言われたら、間違えずに戻さなければならない。
「今日から帳簿はお前が見ろ」
「触ってもいいんですか」
「その代わり、一つでも数字を間違えたら飯抜きだ」
「私、間違えません」
即答すると、エスは鼻を鳴らす。追い出せとも、そこを空けろとも言わず、棚から別の帳簿を下ろしてくる。アールは長椅子の端へ腰を掛け、膝の上にそれを置く。
昨夜の外套は、まだ傍らに残っていた。新しく与えられた名で呼ばれ、今日の仕事を渡されたその日から、倉庫の隅の長椅子は、アールの居場所になっていく。




