第77話 勝敗より先に、刃を止める
決勝戦の開始を告げるドラが、獣盟国南部闘技場へ鳴り響いた。
朝には四つに分けられていた闘技台は、すでに一つの大舞台へ戻されている。
その東側に、黒い四脚の機械兵。西側には、白い全身装甲義体。どちらの背後にも、アールがデザインした同じ《レックレス》の旗が掲げられていた。
「始め!」
審判の腕が振り下ろされる。だが、ルクスもネメシスも、すぐには動かない。
碧い単眼と黄緑色の双眸が、広い闘技台の中央で互いを捉えている。
『既存の戦闘記録のみでは、現在のネメシスに対する有効打を確定できません』
「適切な判断です」
ネメシスが白銀の棒を正眼へ上げる。
「私も、以前のあなたに有効であった戦闘様式を一時破棄します」
『対応を確認。再解析を開始します』
先に間合いを詰めたのは、ネメシスだ。白い装甲が陽光を弾く。一歩目で身体を低く沈め、二歩目には長棒の間合いへ入っている。
ネメシスが握る白銀の長棒が非殺傷棒術、《チェリッシュライフ》の型でルクスの左前脚へ走った。
その一撃は速いが、ルクスは脚を引かない。右腕の《クリードディフェンダー》を逆手に返し、柄元で白棒を下から弾く。
ネメシスは手首が衝撃に従って上がるその動きに抗わず、棒の反対側をルクスの首元へ返した。
黒い刃が立ち、棒と両刃剣が触れ合い、短い金属音が鳴る。
次の瞬間、ルクスの左腕装甲が扇状に展開し、巨大な可変盾がネメシスの視界を埋め尽くした。
『押圧を開始』
盾ごと前へ出るルクスに対し、ネメシスは後退しない。白棒の先端を盾の縁へ添え、その一点を軸に身体を回転させた。
白い影が盾の外側へ滑り出ると同時に、長い機械尻尾がルクスの後脚へ伸びる。刺突刃を使わずに、尾の側面だけで足首を払おうとする軌道だった。
ルクスの後脚が触れられるより先に石床を離れ、尾が空を切った場所へ脚を下ろし、そのまま軸足として上半身を反転。
《クリードディフェンダー》が、ネメシスの背中へ迫る。
ネメシスは振り返らなかった。猫耳型デバイスだけが後方へ向き、白棒が即座に背中へ回る。
刃の腹と棒が噛み合い、振り抜こうとするルクスの力を利用し、ネメシスがさらに一回転した。
その勢いを乗せた棒の先端が、今度は碧い単眼へ迫ると、可変盾が閉じた。幾層もの装甲板が左前腕へ収まりながら棒を挟み、その進行を止める。
「武器の拘束を確認」
『意図した結果です』
ルクスの左腕が引かれる。棒を掴んだまま、ネメシスごと間合いへ引き込む動きだ。
しかし、そこで彼女は白棒を手放した。空いた両手をルクスの左腕へ添え、引かれる力を跳躍へ変える。白い身体が宙を舞った。
ルクスの頭上を越えながら機械尻尾を伸ばし、盾に挟まれた長棒を巻き取り、着地と同時に尾を引く。
あっという間に棒が拘束から抜け、白い手へ戻った。ここまで、わずか数秒。一度も足を止めない攻防に、観客席から遅れて大歓声が上がる。
「すごい……」
来賓席の手すりから身を乗り出し、リネアは闘技台を見下ろしていた。
「今のは、どっちが押してたの?」
「最初の三手はネメシスくん。続く二手はルクスくん。最後の武器回収まで含めるなら、またネメシスくんだね」
アールは果実水の管を咥えたまま答えた。
「そんなに入れ替わってたの?」
「一手ごとに攻める側が変わっている。つまり、今のところはどちらも押していないということさ」
闘技台では、すでに次の攻防が始まっており、今度はルクスが前へ出ていた。四脚が石床を蹴るたび、黒い巨体が大きく左右へ揺れる。
右へ進むと見せて左へ。踏み込むと見せて停止。人型の上半身と四脚の下半身が、別々の判断で動いているかのような変則機動だ。
ネメシスの猫耳型デバイスが、四つの足音を一つずつ丁寧に拾う。ルクスが踏み込むより少し早く、彼女は右斜め前へ進む。
そこは《クリードディフェンダー》の振り始めに近すぎて、刃へ十分な速度が乗らない位置。そこで長棒の中央で柄を押し、斬撃の起点を潰す。
だが、ルクスは剣へ敢えて力を込めなかった。右腕そのものを引き、棒を握るネメシスの身体を前へ泳がせる。
その進路を、展開された可変盾が塞いだ。逃げ道は必然的に上だけとなり、ネメシスが跳ぶ。
そして跳んだ先には、すでに《クリードディフェンダー》の反対側の刃が待っていた。
白棒が刃へ触れるものの、空中では十分に力を逃がせない。ネメシスの身体が闘技台の縁へ向かって弾き飛ばされた。
「場外か――!?」
観客が一斉に立ち上がるその先で、白い足が石床の端を越えるその直前、機械尻尾が鋭く伸びる。
刺突刃が闘技台の側面へ突き立ち、落下しかけた身体を一瞬宙吊りにして耐えた。
ルクスは既に追撃へ移っている。可変盾を前に掲げ、場外へ押し切るために突進する。
ネメシスは尾を支点に身体を振った。闘技台の外側を半周し、迫る盾の横をすり抜ける機動。
ルクスの横を駆け上がるように復帰し、白棒を左前脚の関節へ差し込んだ。
棒を捻れば、巨体の重心を崩せる。だが、その時ルクスの左前脚から力が抜けた。
重心を崩される前に、自ら関節を折り畳む。傾いた重量は残る三本の脚へ分散され、上半身は揺るがない。
代わりに空いた左腕が、ネメシスの胴を捉えようと伸べられ手が閉じられる。彼女は棒を抜き、白い残像を残して後退した。
ルクスの指先が、肩部装甲へ触れる寸前で空を掴む。
歓声がさらに大きくなっていく。どちらも倒れず、どちらも場外へ出ないからだ。
攻めた側が優位を得たように見えた次の瞬間には、その優位そのものが反撃へ利用されている。
ルクスが盾の幅を変えれば、ネメシスは棒を持つ位置を変える。ネメシスが足音を消せば、ルクスは空気の動きから位置を読む。
ルクスが斬撃の予備動作を削れば、ネメシスは動作そのものではなく装甲の軋みと音を拾う。
ネメシスが攻撃の終わりを次の始まりへ繋げれば、ルクスはその連続性を利用して退路を絞る。
一度使った手は、二度目には通用しない。二度目に似た動きを見せれば、それは別の攻撃を成立させるための偽装だった。
高く澄んだ金属音が、絶え間なく闘技場へ響く。進行役は途中から、攻撃を一つずつ説明することを諦めていた。
「両者、一歩も譲りません! いや、いま一歩譲ったのは次の攻撃のためか!? どちらが優勢なのか、私にも分かりません!」
正直な実況に、観客席から笑いと歓声が同時に起こる。
「なんだか、楽しそうだね」
リネアも攻防の詳細を追いかけるのを一旦切り上げて、そう呟く。
「観客諸君にとってはそうだろうね」
アールの返事には、いささか呆れが混じっているようだ。
「アールは楽しくないの?」
「最高峰の戦いではある。戦闘技術的な見本としてなら、入場料を倍にしてもよいくらいだ」
空になりかけた器の氷を、管でからからと鳴らす。
「だが、興行としては最悪だね」
「どうして?」
「二人とも、勝率の低い賭けへ出ない。相手が待っていると分かっている罠へ踏み込まず、少しでも殺傷の可能性がある決定打は選択肢から外している」
アールは闘技台の両者を順に指さした。
「ネメシスくんがルクスくんを完全に停止させるには、動力系か主要関節を破壊する必要がある。ルクスくんがネメシスくんを確実に止めるにも、胸部中枢を損傷させるか、義体の四肢を潰すほどの力が要る」
「そんなこと、二人ともするわけないよ」
「そのとおり。場外を狙っても、片や四脚、片や空間干渉と機械尾だ。降参については――説明するまでもないね」
リネアは闘技台へ目を戻した。ルクスの盾が、ネメシスの長棒を受け止める。
ネメシスは無理に押し込まず、即座に次の角度へ移る。ルクスも追いすぎない。誘いだと理解した時点で足を止め、別の攻撃を組み直している。
「それって、もしかして……」
「うむ、お察しの通りさ」
アールは重々しく頷いた。
「このままでは、日が暮れるまで続く壮大な茶番だよ」
「でも真剣に戦ってる二人に失礼だよ!」
「真剣すぎるから茶番になっていると気付く必要がある。どちらかが少しばかり熱くなり、勝負を焦ってくれれば話は早いのだがね」
「ルクスもネメシスも、そういうことだけはしない気がする」
「知っているとも。だから困っている」
困っていると言いながら、アールの表情から余裕は消えていない。
その橙色の菱形紋様が、一度だけ闘技台から離れた。獣盟国の北方。高い外壁の向こうに広がる、遥かな大地へ向けられる。
リネアが視線の意味を尋ねるより先に、決勝戦が再び動いた。
▲▽▲―――▲▽▲
何度目かの攻防を終えたルクスが、初めて可変盾を完全に閉じた。左腕へ戻った装甲板が、隙間なく重なる。
代わりに四本の脚を大きく開き、上半身を深く沈めた。盾ではなく、機動力で勝負を決める構えであろうか。
ネメシスも白棒を正眼から下段へ移した。機械尻尾が身体の後ろで長く伸び、刺突刃の先端を石床へ触れさせる。
碧と黄緑の視線が互いの得物の先で交わる。次の一撃が、これまでで最速になる。観客の誰もが、そう理解した。
声援が一つずつ止まっていく。決勝戦の行く末を見守る数千人の意識が、闘技台の中央へ集まる。
先に消えたのは、白だった。ネメシスが真正面から踏み込む小細工のない直進。だからこそ、その後に続く無数の選択肢を捨てきれない。
ルクスは動かない。白棒の先端が届く、その直前。四脚が同時に石床を蹴り、黒と白が交差する。
《クリードディフェンダー》が、ネメシスの胸部中枢へ。白銀の長棒の先端が、非殺傷棒術、《チェリッシュライフ》の一撃として、ルクスの首元へ迫る。
両刃剣と白棒が、それぞれの急所へ最短距離を走る。直撃すれば、大会規則では許されない損傷を与えるだろう。
だから二人は、ほぼ同時に攻撃を止めた。刃先と装甲の間に残された距離は、どちらも指一本分。
その一方で、白棒はルクスの剣腕へ絡み、可変盾を閉じた左腕はネメシスの胴を抱え込む寸前まで迫っている。
急所へ向かう二つの攻撃を除けば、互いの非殺傷攻撃もまた、互いに阻まれている完全な均衡。
審判は容易には判定を下せない。観客たちも、息を止めたまま動けない。
ルクスとネメシスは、相手の刃が止まったことを確認すると、同時に武器を引き同じ距離だけ後退した。
静寂が、最高峰の引き分けと仕切り直しという形で爆発的な歓声へ変わろうとした、その時だった。ネメシスの猫耳型デバイスが、闘技台ではない方向へ向く。
『低周波震動を検出』
ルクスの碧い単眼も、細く絞られる。
『広域地盤震動。震源位置、特定不能』
「通常の地殻変動と一致しません」
リネアは足元を見下ろした。まだ何も起きていない。
観客たちも闘技台に立つ二人の様子を訝しみながら、決勝の再開を待っている。
隣で、からりと小さな音がした。アールが持つ器の中で、氷が揺れる音。淡い黄金色の果実水へ、細かな波紋が広がっていく。
幾重にも重なった波紋を見つめ、アールの口角が持ち上がった。
「いいぞ、最高のタイミングじゃないか。あの唐変木にしては」
「一体何が――」
地の底から何かが突き上がってくるような衝撃に、来賓席が大きく跳ねる。
器がアールの手を離れ、果実水と氷を撒き散らしながら石床へ落ちた。その直後、横殴りの揺れが闘技場全体を襲う。
立っていた者があまりの揺れに一斉に倒れ、氏族の旗が根元から折れる。石造りの観客席から悲鳴が上がり、壁面を走った亀裂が目に見える速度で広がっていった。
「地震!?」
リネアは必死に手すりへしがみついた。闘技台の中央では、審判が足を取られて倒れている。
進行役の声を届けていた拡声魔術が途切れ、場内を覆う安全障壁も明滅を繰り返した末に消失していく。
さらに大きな揺れが来る。今度は、巨大な何かが地中を進んでいるかのような、長く不規則な振動だった。
観客席の一角から、鈍い破砕音が響く。上層を支えていた石柱が折れたのだ。張り出していた座席ごと、幾十人もの観客が傾いていく。
『競技行動を中止』
ルクスの可変盾が、再び展開する。
『救命活動へ移行します』
「同意します。周辺生命の保護を最優先へ変更」
ネメシスも、すでに走り出していた。審判の宣言も、アールの命令も待たない。
つい先ほどまで互いへ向けていた比類なき力が、そのまま観客を守るための力へ変わる。
ルクスが四脚で闘技台を蹴り、安全障壁を失った境界を飛び越え、崩れかけた観客席の下へ滑り込む。
そのまま左腕の可変盾を最大まで広げたところに、落下する巨大な石床が激突する。
闘技場を揺るがすほどの轟音とともにルクスの四脚が石床へ沈み、周囲へ放射状の亀裂が走った。
『荷重、想定許容値を超過』
展開した装甲板の接合部が軋むが、盾は下げない。
『支持を継続します。上層区画の人員は、速やかに退避してください』
ネメシスは傾いた座席へ駆け上がっていた。足場を失い、転げ落ちかけた小柄な獣人を片腕で抱き止める。
もう一方の手で白棒を石床へ突き立て、周囲へ呼びかけた。
「自力歩行が困難な者から移送します。私の傍へ寄ってください」
黄緑色の光が、彼女を中心に幾何学的な輪を描く。負傷者と子供たちが、その姿ごと光の中へ消えた。
次に現れたのは、闘技台を挟んだ反対側の平坦な区画。落ちる瓦礫が届かず、外へ続く複数の通路にも近い場所だ。
ネメシスは彼らを下ろすと、即座に再転移した。
一方、リネアはすぐには動けなかった。上下左右から悲鳴が聞こえる。
崩れかけた柱。倒れた者を踏み越えそうになりながら出口へ殺到する人々。
ルクスは観客席を支え、ネメシスは要救助者を運んでいる。自分は何をすればいいのか、誰を先に助ければいいのか。
考えなければならないことが多すぎて、思考が一つにまとまらない。
「リネア、何をしている」
そこで鋭い声が、混乱を断ち切った。
弾かれたように振り返ると、アールだけが揺れる石床の上に平然と立っている。
「まずはVIPの方々を避難経路へと誘導したまえ。そのための眼でもあるんだろう?」
「私の、眼……」
「見えるものを数えるのは後だ。いま必要なのは、どこを通れば生き残れるかという正確な情報だよ」
リネアは右眼を見開いた。義眼の深部で、幾層もの術式が起動する。
視界が切り替わると、人の姿も、豪華な来賓席の装飾も、意味を失って薄れていく。代わりに浮かび上がるのは、建造物を巡る魔力の流れ。
石柱へ掛かる荷重。亀裂の深さと、その進行方向。目の前の階段には、赤い線が無数に走っている。
あと一度でも大きく揺れれば、途中の踊り場から崩落する。左の回廊も天井を支える梁が外れかけている。
右手にある職員用の細い通路だけが、闘技場外周の補強壁とまだ一体化していた。青白く表示された経路が、外へ向かって伸びる。
「こっちです!」
リネアは目一杯叫んだ。来賓席にいた有力氏族の者たちは、自らも戦士である者が多い。すでに武器を手にし、正面階段から観客の救助へ向かおうとしていた。
「正面階段は使わないで! そこの踊り場がもう崩れます!」
「しかし、下には我らの氏族の者たちがいる!」
獅子のたてがみを持つ大柄な獣人が反論する。
「だからこそ、ここで巻き込まれないでください! 右の職員通路から下層へ出られます。そこからなら部下の人たちにも指示を出せます!」
リネアの声は少し震えていた。それでも、指し示す腕だけは動かさない。獅子獣人が彼女の右眼を見る。
その背後で、正面階段から石の砕ける音がした。踊り場が沈み、階段の半分が崩れ落ちる。リネアを疑う声は、それで消えた。
「この娘に従え! 負傷者を中央へ、歩ける者は壁際に寄るな!」
太い声で号令が飛び、来賓たちが動き始めた。リネアはその先頭に立ち、右眼が示す青白い経路を走る。
壁の向こうで亀裂が伸びるたび、進む速度と順番を変える。
「次の角は一人ずつ! 大きな人は身体を横にして! その柱には触らないで!」
もう、声は震えていない。彼女は救える命を安全な場所へ導く道を、的確に選んでいった。




