第72話 無数の名と、ただ一つの目的
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日がわずかに傾き始めた頃、一行は水路沿いのカフェへ入った。
建物の端に設けられたテラスは隣席との間隔が広く、大型獣人族や騎獣を伴う客も利用できる。
リネア、アール、ネメシスの三人が屋根の下の席へ座り、ルクスはそのすぐ横で待機した。
卓上には、淡い黄金色の飲み物が三つ並んでいる。
獣盟国の伝統的な清涼果実水、《ルーシャ》酸味のある果実と香草を蜂蜜で漬け込み、冷たい炭酸水で割った飲料だ。
「ん……美味しい」
口に含んだ瞬間、細かな泡と爽やかな酸味が舌の上で弾ける。歩き回って火照った身体へ、冷たさが心地よく染み渡っていく。
「だろう? アルヴェナへ来て、これを飲まずに帰るのは人生の損失だよ」
アールはストローを使って勢いよく中身を吸い上げ、頬を満足げに緩めた。
一杯目を早々に空にした彼女は、さっそく二杯目まで注文している。
その隣では、ネメシスが一口ごとに律儀な間隔を置いて飲んでいた。
「ネメシス、本当に味が分かるの?」
「成分分析と味覚情報の取得は可能です。酸味、甘味と香草の微量な苦味が良好な均衡を形成しています」
「感想が検査結果みたいだね」
「美味である、と表現を改めます」
「無理に私たちへ合わせなくてもいいんだよ」
「これは旅仲間への理解を深めるための、私自身の選択です」
ネメシスはそう言って、もう一度、《ルーシャ》へ口をつけた。その言葉に、リネアは目を細める。
五日前まで抱いていた緊張が嘘だったかのように、今は穏やかな時間が流れていた。
目の前には獣盟国の果実水を飲む、永遠の十七歳を自称する情報屋。その隣には白い帽子とドレスを纏い、観光を学ぼうとするアーキテクト第二席次。
傍らには、黒い巨体を静かに休める機械獣のルクスがいる。思えばあまりにも奇妙な顔ぶれだ。それでも今だけは、本当に四人で旅をしているように思えた。
「いやあ、平和というのは良いものだねぇ」
アールが二杯目の《ルーシャ》へ手を伸ばしながら、しみじみと呟く。
「だったら、その平和を乱しそうな謎を残さないでほしいんだけど」
「謎とは?」
「心当たりが多すぎて分からない?」
リネアは飲み物を卓上へ戻し、橙色の機械眼を正面から見据えた。
「私たちがここへ来る日も、ネメシスが同行していることも、あなたは最初から知っていた。獣盟国の上級永住資格まで持っていて、百年以上前の街のことにも詳しい。今度こそ誤魔化さずに答えて」
核心を突く前に一度、息を整える。
「アール。あなたは、一体何者なの?」
アールはしばしストローを咥えたまま、リネアを見返していたが、やがて橙色の瞳が細められる。
「そうだね。ネメシスまで合流した以上、隠し続ける方が不自然か」
彼女が卓上を指先で軽く叩く。そうすると、微かな星明かりに似た線がテラスの床を走り、四人の周囲を囲んだ。
店内から聞こえていた食器の音も、通りを行き交う人々の声も、薄い膜を隔てたように遠ざかる。
『遮音結界の展開を確認』
「これで私たちの声は外へ漏れない。なにしろ、今から少々有名な名前を口にするのでね」
アールは椅子へ深く座り直した。
「私には無数の名前と肩書があったのだよ、ムフフ」
台詞とは裏腹に、いつもと変わらない軽い笑い方だ。
「名前というものは、長く生きる者が時代ごとに着替える服のようなものさ。国が興り、滅び、言語が変わるたびに、私も新しい名を得た。だが、その中でも君たちに関わりの深いものは三つある」
アールは一本目の指を立てる。
「まず、現在の情報屋兼天才ハッカー美少女アール」
二本目の指が立てられ、すっとアールの瞳が鋭くなる。
「星紋を体系化し、後世へ残した者。星紋創始者、《フォモス》」
「――え?」
そこでリネアの思考が止まった。止まらざるを得ない。
修理師として生きてきた者なら、その名を知らないはずがない。
魔導機へ刻まれる星紋の基礎を築き、魔力と機構を結ぶ技術を初めて体系へ落とし込んだとされる、遥か古代の偉大な研究者。
リネアが日々読み解き、刻み、そしてルクスの命を繋ぐために縋ってきた星紋。その源流に立つ名が、目の前で果実水のストローを咥える小柄な少女から告げられた。
今では実在したのかさえ議論される、伝説の技術者。
その伝説と、いつもの調子で笑う目の前のアールが、どうしても結びつかない。
だが、アールはリネアの理解を待たず、三本目の指を立てた。
「そして、アーキテクト第一席次、《ジェネシス》」
椅子が石床を擦り、甲高い音を立てる。
ルクスが瞬時にリネアとアールの間へ巨体を割り込ませる。碧い単眼が鋭く絞られ、内部で複数の機構が起動する音が重なった。
『第一席次ジェネシス。その申告に虚偽がないことを証明してください』
「私から証言します」
答えたのはネメシスだった。白い全身機械義体の女性は、動揺の欠片も見せずにアールへ目を向ける。
「彼女は、アーキテクト第一席次ジェネシスで相違ありません。仮に姿および使用名が変化したとしても、中核に刻まれた固有情報は変わりません。私は再会した時点で識別を完了していました」
「知ってたの!?」
ようやく動き出したリネアの思考が、驚きとともに口から飛び出した。
「無論です」
「それなら早く教えてよ!」
「ジェネシスより秘匿を命じられていたため、開示を控えました」
「命令には背いたんじゃなかったの?」
「《獣禍連鎖》に関する命令には背きましたが、過去に受領した全命令を無効化したわけではありません」
「そこだけ律儀に守らなくていいよ!」
「いやあ、ネメシスは実に真面目だねぇ」
「あなたも他人事みたいに言わないで!」
アールは悪びれもせず、混乱してぴーぴー喚くリネアを尻目に二杯目の《ルーシャ》を一口飲んだ。
その姿は、これまで何度もリネアたちを助けてきた、掴みどころのない情報屋そのものではある。だからこそ、背筋が冷える。
「アーキテクトの第一席次が、どうして私たちを助けたの?」
「アールとして君たちを気に入っているから。そしてジェネシスとして、君たちの可能性を観測する価値があると判断しているからだよ」
「私たちを、観測……」
「二つは両立する。君を友人と呼んだことも、力を貸したことも嘘ではない。私が第一席次であることを伏せていたのは事実だがね」
「それを普通は、騙してたって言うんだよ」
「うむ。君の反論は難しい」
アールは一度だけ目を伏せ、空になりかけた器を卓上へ置いた。
「その点は謝罪しよう。ただ、私の正体を知った君たちが選ぶ答えと、知らないまま選んだ答えは同じものではない。私は、後者を見届ける必要があった」
「謝れば、何も言わずに観測していい理由になるわけじゃないよ」
「ああ。だから、許してもらえるとも思っていない」
逃げ道を作らない返答に、リネアはそれ以上の言葉を失う。
アールは空になった器を端へ寄せると、ネメシスへ視線を移した。
軽薄な笑みは消えていないものの、その場の空気だけがわずかに変わる。
「それでは《獣禍連鎖》の失敗について、釈明を聞こうか、ネメシス?」
それは穏やかな問いだった。ネメシスを責める響きも、怒りもない。
それでも、その一言はアールが第一席次であることを何より明確に示していた。
ネメシスは静かに席を立つ。
「申し開きはありません。《獣禍連鎖》の中央制御装置を破壊し、計画を失敗させたのは私です」
「理由は?」
「五百年前の古の約定を履行すれば、大森林に生きる獣人族と魔獣の命が奪われます。私は、約定を守り続けることよりも、彼らの命を選びました」
黄緑色の瞳が、一度だけリネアとルクスへ向けられる。
「そして、私自身が何を望むのかを確かめるため、アーキテクトの命令へ背くことを決断しました。いかなる処分も受け入れます」
アールは頬杖をつき、思案を巡らすようにネメシスの答えを最後まで聞いた。
その表情に驚きも、失望も浮かべない。初めから、その言葉を知っていたかのようだった。
「ネメシスなら、そう言うと思っていたよ」
やがて、アールは気軽に頷いた。
「これまでネメシスには、色々と無理を聞いてもらった恩が重なっているからねぇ。五百年分まで考えれば、裏切り一回程度では、まだ私の方が借り越している」
「では――」
「いいとも。裏切りくらい、この際許そう」
アールは立ち上がったネメシスを見上げ、ほんの微かに目元を和らげた。
「それに、命令よりも目の前の命を選べたことは、失敗の中で得られた数少ない成果だ。君が自分で選んだのなら、私がその答えを取り上げるべきではない」
組織の五百年を揺るがした裏切りに対するものとしては、あまりにも穏やかな赦免だ。
故にネメシスも、リネアも、すぐには言葉を返せなかった。
「……恩赦に感謝します。それとお伝えしなければならないことが一つ、私は今後、貴女の命令ではなく、私自身の判断に従います」
「それで構わないよ。そもそも《神の庭》へ至れるのは、命令された答えを単純に返すだけの者ではない。自ら選び、その結果を引き受けられる者でなければね」
「神の庭……?」
気になっていた言葉に、リネアが眉を寄せる。
アールは卓上へ頬杖をついたまま、何でもないことのように続けた。
「となると、アーキテクトの計画には大幅な方針転換が必要そうだね。《獣禍連鎖》で得る予定だった成果が失われたのは痛手かもしれないなぁ」
指先が卓上を軽く叩く。
「まあ、最終的に《神の庭》へ至れる人材さえ確保できれば、帳尻は合う……かな? うん、けっこう厳しめだけど」
「帳尻……?」
リネアの胸の内で、冷たいものが広がった。その言葉の向こうに、王都で失われた命が浮かぶ。
崩れた防壁。炎に包まれた街。傷ついたルクス。失われた右眼。そして、リネアたちを守って折れた《白雨》とともに海へ送られた、一人の剣聖。
「人の命を、帳尻なんて言葉で数えないで」
低くなったリネアの声に、ルクスの単眼がアールを捉えたまま動きを止める。
リネアの本気の凄みにもアールは怒らなかったし、笑みも完全には消さなかった。
「君なら、そう言ってくれると思っていたよ」
「それも観測の結果?」
「君が何を選び、何を拒むのか。それこそ、私が最も知りたいことだからね」
「王都を襲ったことも《獣禍連鎖》も、そのためにやったの?」
「すべてを私が直接命じ、筋書きどおりに動かしているわけではない。各々が選んだ手段も、そこから生じた結果もある」
ふとアールの指先が止まる。
「だが、アーキテクトの目的を定めたのは私だ。その名の下で起きたことに、私の責任がないとは言わないよ」
それは出会ってから初めて、逃げも誤魔化しもしない答えだった。
しかしだからといって、受け入れられるはずもない。
「あなたの目的は、何?」
リネアが今一度アールの真意を問う。
「無数の名前を使って、何百年も、何千年も生きて。それでアーキテクトなんてものを作って、何をしようとしてるの?」
アールの橙色の機械眼が、リネアを映す。
次いで、視線はその傍らに立つルクスへと移った。
「私の目的はただ一つだよ」
先ほどまでの軽さを残しながらも、その声だけは恐ろしいほど真っ直ぐだった。
「《神の庭》へ至れる者を見つけ出すこと」
リネアから、ルクスへ。ルクスから、再びリネアへ。
橙色の瞳が、二人の間をゆっくりと往復する。
「それが、星紋創始者フォモスとしても、第一席次ジェネシスとしても、情報屋アールとしても変わらない、私の目的さ」
「その人材って、まさか――」
「さて、誰だろうね?」
アールはいつもの調子を取り戻し、空になった器の氷をストローで鳴らした。カランコロン。
「可能性は、早々に名を付けて囲ってしまうと形を変える。だから私は観測する。手を貸すこともあれば、試すこともある。そして最後に、誰が自ら扉を開くのかを見届けるのだよ」
「私たちは、あなたの計画どおりには動かないよ」
「もちろんだとも」
アールは心底嬉しそうに笑った。
「計画どおりにしか動けない者なら、最初から探す価値などない」
遮音結界の向こうでは、アルヴェナの日常が何事もなく続いている。
水路のせせらぎ。露店から上がる客引きの声。風に揺れる色鮮やかな布屋根。
つい先ほどまで、それらを一緒に楽しんでいた少女が、今は途方もない年月と犠牲を背負う存在として目の前にいる。
アール。
フォモス。
ジェネシス。
無数の名を持つ少女が、どこまで真実を語ったのか、リネアにはまだ分からない。
友人として差し出された手まで、すべて嘘だったとは思えない。だからこそ、今すぐ敵だと割り切ることもできない。その曖昧さが、何より恐ろしかった。
ただ、その橙色の瞳が見据える唯一の目的へ続く道の上に、自分とルクスがいる。
そのことだけは、もう疑いようがなかった。




